雨 気温:最低 8℃/最高 10℃
台風16号はすでに熱帯低気圧に変わり、天気概況によれば日本近海には現在「台風」はひとつも存在しないとのこと。しかし秋雨前線の活動が活発なため広範囲にわたって強い風雨に見舞われているている現状だ。ここ蓼科でも昨夜半以来しだいに風雨が強くなり、春の嵐のような状況になっている。降雨はさほどでも無いが、風は強い。ピラタスロープウエイは法令に従って今日は終日運休となった。
明日は午前中で雨が上がって、それ以降は上り坂となり土曜日は曇り、日曜日は曇り後晴れ、月曜日は晴れという予報になっている。この3連休は8日(日)以降に観光を予定するとよろしいかと思う。ピラタスの丘は今日も気温が上がらず、最低気温8℃、最高気温10℃と、東京の12月と同じ気温となった。
蓼科を訪れる方は冬用のフリースやダウンパーカを絶対に忘れないこと。いちばんいいのは薄いものでもいいから長袖長ズボンのアンダーウエア(下着)を1枚着用すること。そうすればまったく寒さなど感じないで思いっきり高原の秋を満喫できると言うものだ。だまされたと思って是非お試しあれ。
ピラタスの丘も劇的に色づいてきている。紅葉は思っていたよりも早く最盛期を迎えるかも知れない。まあ順当な線としては来週末がペンション・サンセットの周辺の紅葉の見ごろとなると思う。現在すでにロープウエイで上がる2000m以上のところは紅葉真っ盛りだ。1750mにあるペンション・サンセットのところまで紅葉が降りてくるのも時間の問題だ。
最近ペンション・サンセットの敷地内を野生の鹿が通り抜けていることが判明したので、終夜屋外の照明を必要最小限点灯することにしている。敷地内の植物や樹木に食害を出さないためだ。それほど鹿の出現確率が高いので、野生との出会いを求めるひとにとって、ピラタスの丘はまたひとつ魅力を増したのかも知れない。
また、都市生活者にとっては「闇」は恐ろしいもの以外の何ものでも無いようなので、夜間窓の外に多少の光があることは安心につながるのかな、とも思っている。そのあたりはお客様のご意見を聞きながら考えていきたいと思っている。ここはとんでもない山岳部だから、またペンションがたくさん建っている別荘地だから治安はとても良く、これまで事件らしきものは皆無だけれど、まあそんなことで、試しに夜間照明を実施しているしだい。
蓼科はすでに紅葉シーズンにはいっているので、これから11月上旬いっぱいはいついらしても紅葉をめでることができると思います。今年の紅葉はしなやかで虫食いも無く色味も鮮やか、ここ数年の中でも格別に美しいので是非ご覧いただきたいのです。
曇りのち雨 気温:最低 8℃/最高 13℃
朝のうち曇り空だったが、昼前には雨が降り出した。土砂降りでは無いが始めから本降りになった。高原の雨はきれいだから、雨が降るほどに屋外駐車してあるクルマがきれいになっていく。ペンション・サンセットの敷地内のアプローチの砂利道や駐車場に降り積もった紅葉を打つ雨音、樹木の葉を打つ雨音がぱたぱたさわさわと聞こえる。
この季節の雨はそのように清冽な印象がする。雨の日の午後を過ごしながら「なんだかすごく静かね。」と妻が言う。そうなのだ、雪降る夜の次に静かなのだ。特にこの季節の雨降りの午後は、何もかもが眠り込んでしまったような静寂に満ちている。森に降る雨はそもそも静かなものなのだけれど。
中庭の犬舎のなかでシベリアンハスキーのパルが熟睡している。夜中は最近特に野生の鹿が徘徊しているので、おちおち眠っていられないから、明るいうちに安心してゆっくり眠っている。風も無く、樹木も揺れない、雨はまるで定規で引いたようにまっすぐな軌跡を残しながら空から地表へと降り続けている。
まるで時間が止まってしまったような錯覚に陥る。どこからともなく、いや、僕の頭の中からか耳の奥からかきーんという音が聞こえてくる。自分の呼吸する音がはっきりと聞こえる。二重ガラスの向こうの景色は一幅の絵画のように色鮮やかで癒しに満ちている。
その一方でこの景色はどこか心うきうきするものを感じさせる。わくわくしてくる。紅葉が始まる時にはいつもこの気分が支配するようになっていく。秋に収穫されるのは田畑の作物だけでは無く、景色もまた収穫の季節を迎えるのだ。雨が降っていても空は明るく、景色はくっきりとしている。
Power Mac G5 のたてるぶーんという音、僕がキーボードをたたく音以外なにも聞こえない。夜になってピラタスの森はますます静かだ。自分がいま覚醒しているのか眠っているのかも定かでなくなるほどに。
晴れのち曇り 気温:最低 9℃/最高 15℃
朝から良い天気で、じつに気持ちのいい一日だったが、夕暮れ間近になってピラタスの丘全体が雲の中に入ってしまった。おそらくここだけ濃霧状態になっているのだろう。雨とも濃霧ともつかない。建物周りの照明も遠くまでは届かずに拡散してしまう。
少し離れたところから観ると、きょうのペンション・サンセットはとてもファンタジックなたたずまいだ。まだ高原暮らしを始める前は、こんな霧の夜(実際は雲の中に入っているだけ)にはえもいわれないロマンチックな気分になったものだ。流れ揺蕩う(たゆとう)霧の粒子に自分の想いを込めてしまう。
毎朝ラウンジに出る度に景色がはっきりと変化していて驚くばかりだ。森の様子がどんどん変わっている。紅葉に向かって、まず色彩が変化し、いつの間にか地面は黄色や朱色の落ち葉で彩られている。精神の回廊を歩むようなバッハを聴きながら、それがこの情景にたとえようもなくマッチしていることを感じる。
しかし想いは伝わらない。伝えるべき対象を欠いているからだ。伝えたい誰かをイメージできない僕がいる。かつて僕は伝えるべきことを伝えるべき相手に確実に伝えるという仕事をしていた。広告会社というのはコミュニケーション産業なのだ。僕はいつもいつも伝えるべきことと伝えるべき相手とを繋ぐ手段を夜も寝ないで考え続けていた。そして気づいたことは、自分にはこの仕事を続ける資質が致命的に欠けているという事実だった。
そのようにして僕の前半生は終わった。僕は勝負を下りて、改めて「自分の土俵で自分の相撲を取る」ことを求めた。そして10年後、ふと気づくと「ここ」にいた。若かった僕は自分を変えたかったのだろう。自分にとってもっとも居心地の悪い、もっとも不得意な環境に自分を投げ込んだのだ。
若い頃は何でも「演じきる」自信があった。まったく根拠のない自信だ。誰にだって若い頃にはよくある勘違いだ。どんなことをしたって、どんな仕事をしたって、どんな経験をしたって「自分の核心」とでも呼ぶべき部分は決して変わらないし、変えることなんてできないのだ。ブーメランのように僕は「自分というこの場所」に戻ってきていた。
そのようにして「円環」を描いてひとは結局「自分」に戻ってくるものなのだ。決して「自分」からは逃げられない。自分を見捨てることもできないし、自分から見捨てられることもない。自分になるしかないのだ。なぜなら、ひとは「自分」になることを運命づけられて生まれてくるからだ。
人生に「意味」を見いだすことはほとんど不可能か、見いだしたとしてもそれは便宜的な「幻想」にすぎない。しかし人生の目的と価値を定めることは可能だ。「ひとは自分になるために生きている」ということだ。だからこそ幸福とは「自分が自分である」ということに違いない。本当の自分はここにいる。最初からね。きみはいったいどこを探し回っていたのかね。こんな霧の深い夜に。
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