晴れのち曇り 気温:最低 4℃/最高 12℃
正直言うと僕はマイクロソフト社の誇るプレゼンテーションのデファクトスタンダードであるところの「Power Point」を仕事で使ったことがありません。僕がビジネスマンやってた頃にはまだ MS DOS 3.1の時代で、一太郎 と Lotus 1-2-3 がようやく標準として普及しだしたころでしたから。オフィスLANや社内LANなんて存在しなかった。
でも、考え方は同じでした。見栄えや演出ではかなうはずもないのですが、プレゼンテーションの基本的作法は「Power Point」以前もそれ以降も変わらなかった。まあ、当然といえばその通りなのですが。で、ペンションを始めて数年後、Mac版の Office がリリースされて以来お遊びでいじることはあっても仕事として使ったことはなかった。
でも今回別のコンセプトでペンション・サンセットのホームページ制作をすることになって、時代の方向としてはそっちにいくのかなと思いました。実際の制作に使っているソフトウエアは別のものなのですが、考え方には共通するものがあります。
思いのこもった写真と、インパクトある簡潔な文章、美しいレイアウトとフラッシュムービーによる演出。言葉を尽くして表現するのも大変だけれど、反対に言葉を削って簡潔に表現することもまたものすごく難しい作業です。写真選びやスライドショーの素材集めや画像加工も地味な消耗戦です。
ひと時代前、ペンション経営者が自らこのような仕事をするようになるなどと、いったい誰が想像したでしょう。ペンションを始めて、エンジン式刈り払い機やチェーンソウや大型除雪機を日常の道具として使うようになるなどと想像していなかったのと同じぐらいの驚きです。
「市場原理主義」を標榜するいまの時代の流れは個人的には「違うな」と思うのですが、この大きな潮流にあらがえるはずもなく、経営者としては適応対応していかなければならないのだと思います。ひとびとの頭脳構造が変えられてしまった、洗脳とまでは言わないけれど、「ゲーム脳」というのは実在すると思うし、思考停止が日常的に起こっているのも事実だと思います。これはきわめて危険な状況です。
思うに米国は紛れもない(本来的意味における)「帝国主義国家」であり、彼らが推し進めている「グローバルスタンダード」とやらは間違いなく世界を不幸にしていると思います。それはノーベル賞受賞経済学者スティグリッツの著書を読むまでもなく、米国は自国の「不幸な社会」と「ゆがんだ経済システム」を世界に押しつけ押し広げようとしています。
米国民がみな幸福そうならまだ納得も行くのですが、ネオコンと称されるひとにぎりの特権階級こと「勝ち組」以外の人々はどんどん不幸になっていっている。僕は自分の世代においては異例の反・学生運動的考えを持っているのだけれど、それは政治的立場とは関係なくどんなイデオロギーもインチキだという実感に基づいています。
それでもなお「グローバリゼーション」というこのインチキなお題目あるいはムーブメントに抗うことは十分以上に価値のあることだと思います。誰も「ノー」と言わないこの社会は健全なのでしょうか。偉大なるイエスマンこそ現代の寵児(ちょうじ)なのでしょうか。
曇りのち雨 気温:最低 6℃/最高 14℃
朝、雨は止んでいました。予報どおり日中は曇り空になりました。午後4時過ぎにふたたび雨が降り始めあっという間に本降りになりました。これは天気予報よりちょっと早かった。今日はちょっと憂鬱です。僕のペンションのコンセプトが時代のツボを外しているような気がするからです。
ツボを外しているからと言って、これは僕の生き方の問題なのでおいそれと変更するわけにはいかないし、ペンションを純粋な商売とは考えたくないので、そういう観点からはどうしようもないのだけれど。やっぱり集客のためのホームページはプロに頼んでお客様受けの良いものに徹したほうがいいのではないかと思い始めています。
なにを書いても、なにを語ってもなにも伝わっていないような気がしてきています。パワーポイントで作ったプレゼンテーション資料みたいなホームページのペンションの方が集客実績が高いように感じるのです。そのほうが効率的に集客できているように感じるのです。
みんなものを考えなくなってしまった、少なくとも考えるひとの絶対数が減ってきているのを実感しています。ペンション選びなんてホームページを開いて上っ面をさらっと眺めて感覚的に「印象」だけで決めてしまっているように感じます。あるいは貸し切り温泉露天風呂の写真が載っていたとか、料理の写真がきれいだとか。宣伝上手だとか。
それは普通の行動ではあるけれど、それだけではただ宣伝に乗せられているだけで、ご自身で選択しているとは言えないと思うのです。まあ、ペンションごときを選ぶのにそんなに労力なんて使えるかってことなのかも知れませんけれど。
立地や設備、サービスの内容やお料理のレベルや接客の丁寧さ、親切さのどれをとっても他の同価格帯のペンションと比べて同等かそれ以上なのに、このホームページではそのことを伝えることができていないのかも知れません。そのことを検証し、反省しなければならないのかも知れません。(もっと宣伝上手にならなければいけない、もっと宣伝に徹しなければいけないのかも知れません)
そもそもこんなに手間暇かけてホームページを運営していること自体、間違っているのかも知れません。もっと他にやらなければならないことが山積しているのですから。それでもやめないのはいまの時代性に「ノー」と言い続けたいからです。
何でもかんでも「手っ取り早く」という風潮に異議を唱えたいからです。逼迫したニーズがあるときのネットショップの「手っ取り早さ」や「迅速性」はじつにありがたいもので、僕も日常的に利用しているのですが、それとは違うものもあると思うのです。ペンションは「商品(モノ)」ではありませんから、違った選択基準を持ってみてほしいなんて僭越なことを願ったりしています。
「スローライフ」なんてことが喧伝されていますけれど、実際の行動はちっとも「スロー」では無いどころか「スロー」を許容しないというのが現代社会の実相だと思います。スピードを要求されないプライベート・ライフにおいてすら仕事と同じペースで事を行おうとしているように見えるのです。
そんなに生き急いだって、人生の長さも密度も変わらないのです。じっくり味わったり、じっくり鑑賞したり、じっくり考えたりということによって、人生はじつに味わい深いものになるのだと思います。そして蓼科は、少なくともペンション・サンセットは、ラッシュライフとでも言うべき現代の生活からいっとき逃れ出て「スローダウン」する場所なのです。
僕はそのような理念を持ってペンションを始めました。自分自身が「ラッシュライフ」のまっただ中で疲労し疲弊してしまった1人ですから。秒単位の生活、一日に20時間以上働く生活、休日のない人生を20年近くも送った人間ですから、そのことが痛いほどわかるのです。
だからどうかもうこれ以上急がないでください、身近にありながら気づくことの無かった様々なものに気づき、それをじっくりと味わってほしいのです、自分の呼吸する音が聞こえるほどの森の静寂とゆったりとした時間の流れに身をゆだねて本来のご自分を取り戻していただきたいのです。
それだけが僕の後半生の願いです。
晴れ 気温:最低 3℃/最高 11℃
「ひとの話しぜんぜん聞いてないし〜」というのはやはり現代の潮流のようだ。昔と違うのは決して悪意はないということか。それは情報過多時代にあって情報処理能力に限界のある人間の頭脳を守るためのブレーカーあるいはフィルターみたいなものなのだと思う。
ほとんどの情報をいわば「ノイズ」として「流し」ていながら、ふと必要な情報に気づけばそれを吟味して摂取するという様子なのだ。現代の高度情報化社会にあって頭脳を健全に守るためにはそのような機制もまた必要なのかと思う。TV、インターネット、ゲーム、CMを始めとしてこれでもかこれでもかと情報が流し込まれるのだからそれをすべて真に受けていたらたまらないだろう。
だからといって、本来精神の滋養となる読書や音楽鑑賞、映画鑑賞などの学芸の分野まで無差別にフィルタリングされてしまっているのはいかがなものかと危機感をつのらせている。そんな感性の殺戮とも言える状況があり、その一方でそれらに(時間的に)とってかわっているのはまぎれもなく「ケータイ」だ。
不思議なのはケータイ以前と以後の時代を比較してひととひととのコミュニケーションがより深まっているかというと、決してそんなことはないという事実だ。伝えたいこと、伝えたい想いを伝える困難は同様に存在するのだ。ケータイによってかえって手続きが面倒に遠回りしている感すらある。
人々はお互いが「繋がっている」ことの確認のために、ケータイメールを打ち合っているようにさえ見える。それは「群をはぐれたくないという不安」によって動機付けられているにちがいない。個人的にはあまり健全だとは思えないのだけれど、まあそれ自体が「娯楽」といえなくもないし、どうこう言う立場にもないから「良いんじゃないっすか」なんて言ってしまうのだけれど。
僕のようなケータイ以前に生きる「古代人」からみると、それにしても膨大な時間の浪費のようにも思われるのだけど。シンプルにストレートに生きることのできない時代になったのかも知れない。山間部ではライフラインとしての意味もあってケータイは都市部以上に普及しているのだけれど、基本的には同様の使い方がされている。
ケータイ以降飛躍的にコミュニケーションが容易になったことは実際問題として革命的だった。しかし、それが定着して以降、都市部と同じ使い方がそれに加わった。結果として、のどかな山暮らしにしてはなにやらとても忙しくなった。昔のように用件のみのメールではない「メル友」メールのトラフィックが増大したのだ。
場所を選ばず、ケータイ以降(これは象徴的な意味でということだけど)みんなとてもとても多忙になった。本を読んでじっくり想いを巡らせたり考えたりすることも少なくなり、フェース・トゥ・フェースでの会話もストレートではなくなった。ケータイやメールの方が話しやすくなっていたりしてね。
これは喜ぶべきことなのだろうか、悲しむべきこと、憂慮すべきことなのだろうか。
時代の流れといってしまえば受け入れるほか無いのだけれど、ケータイが小・中・高生の世代に大人の目の届かない絶対的無法地帯を提供してしまったことは(たとえば映画《リリーシュシュのすべて》を見るとそのことがリアルにうかがえるけど)紛れもない負の側面だ。
マスコミが大好きな「心の闇」とやらはそのような暗黒の無法地帯で密やかに肥大化している。そのような世界においては「人間」らしいまともな人間は生まれないし、育たない。文字通りの「人でなし」が大手を振ってまかり通る世界がある。ゲームによって培われる病んだ思考形態については別の議論に譲るが、ケータイとゲームの現状を僕は認めない。それが「人間」を壊す機構となっているからだ。
ケータイとゲームとそしてもしかしたらインターネットとによって、ひとびとは、特に子供たちと若者は「リアリティー」を喪失している。リアリティーとは「いま、ここに、ある」という絶対的な認識のことだ。自分が自分であるという確信のことだ。本当の自分を生きる唯一の手がかりのことだ。
その大切なものがいま失われ続けている。
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