曇りのち雨 気温:最低 5℃/最高 10℃
天気予報どおり正午から雨が降り出した。始めはぽつりぽつりという感じだったのが、急に夕立のような激しいふりに変わった。その後風が出たりもしたが、いまは普通のにわか雨のような降り方に変わっている。この雨は明日の朝まで降り続き、その後もぐずつくが夕方からは晴れてくるという天気概況だ。
9月8日に腫瘍の手術をした愛犬パル君の抜糸に行ってきた。最初から警戒してクルマに乗せるのもひと騒ぎだったが、獣医院が近づくにつれて何とか逃げ出そうとクルマの中でじたばたと大騒ぎしてもう大変だった。まったく大きななりをしているくせに、頭の中は子犬の頃と変わらないんだから。
しかし診察台に乗ると観念しておとなしく抜糸させた。これでもう大丈夫と言う獣医さんの言葉もあってひと安心。まあ、内臓の腫瘍では無くお尻にできた繊維腫だったので、今後も心配は無いとのこと。しかし今日の診療もまた彼にとっては怖い体験だったらしく、いまも犬舎にこもってすっかり気配を消しているパル君である。
さて、先日 Amazon.co.jp にカスタマーレビューを書いていることを記したが、これって「このレビューは参考になりましたか?」というかたちで投票ボタンを押せる仕掛けになっているので、読んだひとの反響がダイレクトにわかってしまう。当然「支持」もあれば「不支持」や「反感」や「悪意」もありうるわけだ。
その点でこの日記よりもはるかにパブリックな発言とみなされているわけで、かなり怖い行為でもあると感じている。しかしそれによって自分が鍛えられると言う側面もあるので、あえてチャレンジを続ける所存だ。いずれにしてもいまやネット界は「渡る世間は鬼ばかり」なのだ、たぶん。(ドラマは見たことないけど)
「ウェブログ(web log)」という定義から言うならば、この日記は「ブログ」と言って差し支えないが、システムや機能の観点から見れば「ブログ」の要件を満たしていない。このページはすべてHTMLによって記述されているからだ。RSS機能は備えているが、トラックバック機能やコメント書き込み機能は無い。
加えてコンテンツとしてもいまはやりの「ブログ」の要件を満たしていないように思われる。この日記は当初のタイトルが「オーナーのひとりごと」だったことからもわかるとおり、独白文なのだ。社会事象をタイムリーにとらえてインタラクティブに論じるものでは無いし、そのことに関して第三者と議論するものでも無い。
だから蓼科高原日記がいま風の「ブログ」に変身することは無いと思うし、僕にはそれができないのでは無いかと考えている。
ピラタスの丘では樹木が急激に緑から黄色へとその色彩を変化させている。今日のように強い風が吹くと庭や道路にはかなりの量の落ち葉が降り積もるようになった。じつに劇的にそのように変化したのだった。まるで誰かがかちっとスイッチをいれて季節を「秋」に切り替えたみたいに。
今夜もまた冷え込んでいる。そしてどこまでも静かな夜が更けてゆく。
曇りのち晴れ 気温:最低 8℃/最高 16℃
平原綾香の「明日(あした)」という曲がとても好きだ。倉本聰原作のTVドラマ「静かな時間」のタイトル曲だったのだけれど、初めて聴いたときから一発でファンになってしまった。なんだか胸がきゅんとなるのね、まるで思春期の頃みたいに。年齢を重ねるにつれてそんな機会はあまりなくなっていたから、なんだか不意を突かれてしまったというわけさ。
「静かな時間」というドラマを僕は「父親」の立場から観ることになった。年齢から言って当然のことだけれど、たとえば若い人が息子の立場から観たらどんな風に感じたのだろうか。奇しくも蓼科高原日記のかつてのサブタイトルは「静かな生活」だった。「静かな時間」とほぼ同義で名付けたものだ。
じつに僕はここで静かな時間を過ごしている。ラッシュライフとも言える激しい時間を20年ほど過ごしたあとで、僕はこちらに移住したのだった。気づいたときには心身とももうぼろぼろになっていたからだ。充実した濃密な時間だったけれど、それらの時間はしっかりととるべきものを僕から奪っていったのだ。
今夜 Amazon.co.jp と楽天市場に賞品レビューを書いていてふと思った。なにを書いていてもこのスタイルは変わらないんだなあ、と。そして、ああ、このスタイルこそが僕なのだ、と。セルフアイデンティティーなんてことは考えないほうがいい、セルフイメージなんて持たないほうがいい、百害あって一利無しだ。この僕が体験者だから間違いない。
しかし、スタイルには目を向けたほうがいいのかも知れない。自分のスタイルにはこだわったほうがいい、たぶん。表現手段やメディアは何だって良いのだ。文章でも、ファッションでも、写真でも、なんでもいい。ただ、誰のまねでもない、だれもまねできない自分のスタイルを持ちたいと意識し続けることは大切なことだと思うよ。
そんなふうにして生きていると、良い想いをしたり得したりすることよりも、嫌な想いをしたり損したりすることの方が多いかも知れない。いや、きっとそうなる。でもね、自分が自分であることこそが幸福なのだ、という観点に立つならば、僕らはどんどん先に進まなければならない。この道は間違っていない、この道を進むのが正しいのだ。
生来「世渡り上手」なひとはその才能に従って生きるのが良いだろう、しかし多くの「世渡り下手」なひとたちは、「自分の土俵で自分の相撲を取る」ほかないしそれがベストなのだと確信している。要するのそれこそが自分のスタイルで生きると言うことなのだ。
自分のスタイルを持つこと、自分の文体を持つこと、まずはそのあたりから始めてみてはどうだろうか。あらためて、僕もそうしてみようと思う昨今です。
曇りのち雨 気温:最低 8℃/最高 13℃
僕らは過大な期待をしすぎていたのかも知れない。インターネットというインフラに、WWW(ワールドワイドウェブ)というひとつの世界観に。一個人が国境を越えて不特定多数の人々にメッセージを発信できると、いささかなりとも、思いこんでいたところがある。
しかしそれはどうも違っていたようだ。インターネットの世界でも、インターネットが出現する以前の現実世界と同じことが起こっているだけだ。個人のメッセージは個人のメッセージ以上の力を持ち得ないし、広告は広告らしくなければその効果が期待できない。新しいコミュニケーション形態は未だ出現していない。
それはケータイ以前とケータイ普及後の社会が何ら本質的変化を遂げていないということとも相通じる事実だ。それを使うのが人間である以上、そしてその人間が何ら進化していない以上、あたりまえのことかも知れない。インターネットとケータイというこのふたつのコミュニケーションのために用いられるインフラのもたらしたものといえば、社会における個人の匿名性の氾濫だけなのかもしれない。
また「匿名性」だ、やれやれ。
僕らは「匿名性」を身にまとうことによって、まるでなんでも透明にしてしまう魔法のマントをまとったような気になってしまう。自分は安全圏に身を置きながら何だってすることができる。この匿名性による自己の行為の秘匿こそ、現代社会の病理といえるだろう。
というようなことをまた書いてしまう。これでまたお客様が減ってしまうのだろう。がんばって書けば書くほど潜在顧客の数が減ってゆくような気がする。もっと楽しくて、おいしそうな話ばかり書く方が何倍良いのか知れないけれど、僕にはそれができない。
「匿名のペンションオーナー」としてお料理の四方山話(よもやまばなし)とか、パンを焼く話とかだけしていた方がずっとずっと良いのかも知れないのにね。
匿名を使わずに日記を書くという行為は結局はこのようなスタイルこのようなコンテンツへと帰結するほか無いのかも知れない。僕という実在の個人の核心から読者を遠ざけるために螺旋(らせん)を描くようにして個人的想いから話をそらせてゆくのだ。
螺旋構造(らせんこうぞう)は DNA だけではない。それは思考においても存在する構造なのだ。弁証法なども僕の感覚では「螺旋構造」そのもののプロセスのように感じる。しかも(少なくとも)僕の思考における螺旋構造はエッシャーの「だまし絵」のように、あるいは音楽における音階のように、のぼることもなくくだることもなく、進むこともなく戻ることもない。気がつけばいつの間にか「ふりだし」へと戻っている。
11年前に書き始められたこの日記は、おそらく、12年かけて巨大な「円環」を描くような気がしている。つまり、12年の歳月をかけて「ふりだし」に戻るのだ。それを「徒労」と呼ぶべきか、「いささかの進歩・進捗」と呼ぶべきか僕は知らない。
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