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山暮らしはいつも命がけの危険と隣り合わせの力仕事、というか「闘い」です。周囲のひとはそんなことは当たり前で何とも感じていない、とういか、言うまでもないから何も言わずに淡々と作業なさっているようですが、肉体労働未経験の都会育ちのビジネスマンだった僕は、とても「ひ弱」で、いつもびくびくしながら作業しています。(^_^;)
そう、僕はこの地に暮らすようになって知った。自分の弱さを、それも自分の本当の弱さがどのようなものなのかを。それを知ったからといって、急に何かが変わるわけでもないし、好転させる方法が見えてくるわけでもない。でも、知らないよりは知っていた方がいいと思っている。
強くなりたいと想っても、そして実際に強くなろうとしても、それで強くなれることは先ずあり得ない。それは経験的事実だ。でも。強さってなんだろうと考えたとき、それが「耐える強さ」だってことに気づいた。何に耐える強さかというと、「自分が自分であること」に耐える強さだ。
「自分らしく生きる」というのはそういうことなんだ、シンプルに言ってしまえば。
ひとは互いに相手を自分の価値観なり世界観に従わせようとしながら生きている。「組織」とか「地域」とか「仲間」とか、それはあらゆるレベルにおいて自然な原理として存在する。それから逃れて生きていくことはほとんど不可能だ。
そこで、選択肢はおおまかにふたつ。(1)自分を捨てて相手に合わせる、(2)自分の生き方を通す。
前者を選択するのが常識的選択かも知れない。が、後者への欲求はしだいに増すのどの渇きにも似てわれわれを苦しめることとなる。「自分は一体何者なのだ?」という問いかけとなって我々の魂をゆさぶり不安にする。
「自分を捨てて」というのはじつに巧妙なレトリックであって、これは強者が弱者を従わせ支配するときの美しく甘美な常套句である。「もっと馬鹿になれ!」という言葉も本質的には同じものだ。その証拠を示すのはじつに簡単だ。強者、支配者が「自分を捨てて相手に従う」のを見たことがあるだろうか、それは強者の敗北に他ならない。それを行えば彼はもはや支配者ではなく被支配者である。
「もっと馬鹿になる」ような支配者はいない、それではもはや支配者ではいられないからだ。百歩譲って別の意味において比喩として「もっと馬鹿になる」ことが有用なケースはあるかも知れない。が、それは人に言われたり命じられたりする筋合いのものではない。自分で考え自分で決めることだ。それこそよけいなお世話というものだろう。
「人の和」を説く人間は「秀でた(ひいでた)」強い影響力・支配力を持った人間ばかりではないだろうか。「和をもって尊しと為す(わをもってとうとしとなす)」と説いたのは聖徳太子だが、この言葉は絶対的支配者である聖徳太子が説いたからこそ意味を成すのであって、名も無き民が発しても実際的にはほとんど意味を成さない言葉だったろう。
もっとも、この言葉はかなり誤った用法で用いられているケースが多いようだけれど。興味のある方はウェブ上で検索しても良いし、辞書を引くなりして調べてみるのも興味深いかも知れない。
「小異を捨てて大同につく(しょういをすててだいどうにつく)」も同様に(意図的に)誤った使い方をされていることが多い。ここで言う「小異」こそ「個人の尊厳や固有の権利」であり「本当の自分」であることが多いのだ。意見や見解の小さな違いを捨てて大局的合意をするという本来の意味とは異なった使い方をする支配者。「大同小異」、危険な言葉だ。
さて、僕はといえば、ばりばりの「組織人」として自分を訓練し、組織人として前半生を生きた。そして自己崩壊寸前までいってしまった、少なくとも内面的には。要はバランス感覚が悪かったということなのだけれど。簡単に言ってしまえば、「本音(本当の自分の生き方)」と「たてまえ(自分を捨てて所属集団の価値観に則って生きる)」の使い分けがうまくなかったってこと。
だから、ここへやって来たのは、「本当の自分の生き方」を実現する、実際的には「実践する」、ということだったのです。しかし実際のところそれはどこにいたって「ハードボイルド」な生き方です。向かい風の人生ですね。場合によっては村八分的人間関係の危機をはらんだスタンスです。だから「快適で安楽で楽しい人生」を求めているわけではない。つらくて孤独な闘いの後半生を選択したのかも知れない。
でもその選択以降の僕こそ本来の「自分らしい自分」だと胸を張って言えるし、そんな自分がうれしい。
そんな僕にたいして反感を持つ人間もいるだろうしそうでない人たちもいると思う。それが自然なことだ。敵もいれば味方もいる、さらに敵か味方かが曖昧な人たちも圧倒的多数存在する。それが自然な姿だし、その曖昧さに耐えることこそ自分を強くする唯一の成長過程だとも思っている。
だから本当は僕は孤独ではないのかも知れない。それは単なる「孤独感」にすぎないのかもしれない、誰もが時として感じる。そのような孤独感を持たないひとはおそらく自分が「共同幻想」の世界に生きていることに気づいていないのだ。しかし、誰の人生においてもその事実が暴かれる日はやがてやってくる、確実に。まあいいか、ゲーテがファウストに言わせたように、しょせん「万物はメタファー」なのだから。
(注)実はこの文章は2004年6月某日に書いた日記の一部だ。思うところあって転載する。
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