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「ひとの話しぜんぜん聞いてないし〜」というのはやはり現代の潮流のようだ。昔と違うのは決して悪意はないということか。それは情報過多時代にあって情報処理能力に限界のある人間の頭脳を守るためのブレーカーあるいはフィルターみたいなものなのだと思う。
ほとんどの情報をいわば「ノイズ」として「流し」ていながら、ふと必要な情報に気づけばそれを吟味して摂取するという様子なのだ。現代の高度情報化社会にあって頭脳を健全に守るためにはそのような機制もまた必要なのかと思う。TV、インターネット、ゲーム、CMを始めとしてこれでもかこれでもかと情報が流し込まれるのだからそれをすべて真に受けていたらたまらないだろう。
だからといって、本来精神の滋養となる読書や音楽鑑賞、映画鑑賞などの学芸の分野まで無差別にフィルタリングされてしまっているのはいかがなものかと危機感をつのらせている。そんな感性の殺戮とも言える状況があり、その一方でそれらに(時間的に)とってかわっているのはまぎれもなく「ケータイ」だ。
不思議なのはケータイ以前と以後の時代を比較してひととひととのコミュニケーションがより深まっているかというと、決してそんなことはないという事実だ。伝えたいこと、伝えたい想いを伝える困難は同様に存在するのだ。ケータイによってかえって手続きが面倒に遠回りしている感すらある。
人々はお互いが「繋がっている」ことの確認のために、ケータイメールを打ち合っているようにさえ見える。それは「群をはぐれたくないという不安」によって動機付けられているにちがいない。個人的にはあまり健全だとは思えないのだけれど、まあそれ自体が「娯楽」といえなくもないし、どうこう言う立場にもないから「良いんじゃないっすか」なんて言ってしまうのだけれど。
僕のようなケータイ以前に生きる「古代人」からみると、それにしても膨大な時間の浪費のようにも思われるのだけど。シンプルにストレートに生きることのできない時代になったのかも知れない。山間部ではライフラインとしての意味もあってケータイは都市部以上に普及しているのだけれど、基本的には同様の使い方がされている。
ケータイ以降飛躍的にコミュニケーションが容易になったことは実際問題として革命的だった。しかし、それが定着して以降、都市部と同じ使い方がそれに加わった。結果として、のどかな山暮らしにしてはなにやらとても忙しくなった。昔のように用件のみのメールではない「メル友」メールのトラフィックが増大したのだ。
場所を選ばず、ケータイ以降(これは象徴的な意味でということだけど)みんなとてもとても多忙になった。本を読んでじっくり想いを巡らせたり考えたりすることも少なくなり、フェース・トゥ・フェースでの会話もストレートではなくなった。ケータイやメールの方が話しやすくなっていたりしてね。
これは喜ぶべきことなのだろうか、悲しむべきこと、憂慮すべきことなのだろうか。
時代の流れといってしまえば受け入れるほか無いのだけれど、ケータイが小・中・高生の世代に大人の目の届かない絶対的無法地帯を提供してしまったことは(たとえば映画《リリーシュシュのすべて》を見るとそのことがリアルにうかがえるけど)紛れもない負の側面だ。
マスコミが大好きな「心の闇」とやらはそのような暗黒の無法地帯で密やかに肥大化している。そのような世界においては「人間」らしいまともな人間は生まれないし、育たない。文字通りの「人でなし」が大手を振ってまかり通る世界がある。ゲームによって培われる病んだ思考形態については別の議論に譲るが、ケータイとゲームの現状を僕は認めない。それが「人間」を壊す機構となっているからだ。
ケータイとゲームとそしてもしかしたらインターネットとによって、ひとびとは、特に子供たちと若者は「リアリティー」を喪失している。リアリティーとは「いま、ここに、ある」という絶対的な認識のことだ。自分が自分であるという確信のことだ。本当の自分を生きる唯一の手がかりのことだ。
その大切なものがいま失われ続けている。
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