雨のち曇り 気温:最低 3℃/最高 7℃
ようやく雨は上がったが、さんさんと降り注ぐ陽光はない。麓から見るとピラタスの丘のある山の上はすっぽりと雲をかぶっているのがわかる。ここは文字通り別世界なのだ。ステイン塗り立てのテラスの床も弾かれた雨水が乾いていない。
この高温では雪の気配は全くない。森はいまだに秋の気配を残したままたたずんでいる。いささか当惑しているかのように。風が吹き抜けるが、空っ風ではない。それどころか濃密な湿度を感じる。これで気温が下がればいつ雪が降ってもおかしくない。
これまである意味で迷うことなく一筋に突き進んできた。ペンション経営も、ホームページ運営も。
しかし、時代潮流は大きく変化した。過酷な不幸な時代へと大きく梶を切ったのだ。先人たちが命がけで勝ち取ってきた資本主義における労働者の権利や地位がリセットされようとしている。自由民権運動や数十年に及ぶ労働運動、労働争議によって実現された社会主義的制度が資本原理主義によって、まるで明治時代にまで戻されようとしている。
資本家が潤い、労働者が搾取される。そんな前時代的なステレオタイプが息を吹き返そうとしている。資本原理主義の完成型は「格差社会」そのものだ。資本家と労働者、まるでカードゲームの「地主と貧民」そのままの社会。資本家はますます富み、労働者はますます悲惨な境遇へと追いやられる。
20世紀のある時期、われわれが「1億総中流社会」などと思いこめたのは、長年の間に修正主義的に盛り込まれた社会主義的システムによってのことだったのだ。小泉政権が標榜した「小さな政府」とはその「社会主義的システム」と「福祉」を切り捨てることによって実現するものだった。これは欺瞞である。小さな政府とはそのようなものではなくて、政府システムが小さな=官庁や役人が少ない政府のことなのだ。
また資本原理主義においては企業活動は資本家の利潤追求の場であって、そこに従来のような社会の一員としての品格や資本の社会還元といった考え方はない。「会社は株主のものである」とはそのような意味だ。もはや企業は社会的システムではなく、単なる利潤追求のためのシステムに過ぎない。
「競争社会」のメリットを説く政府だが、その本質は「地主と貧民」というゲームそのままに、それは競争などではなく、既得権者をますます富ませる結果となる弱者同士のつぶし合いに結果する。競争するのは弱者同士であって、強者であるところの資本家は「高みの見物」を決め込んでいるだけでよい。それが安倍政権の「再チャレンジ」スキームである。これもまた欺瞞だ。
過度の競争は人々を不幸にする。これは人類の体験的法則である。
動かしようのない格差はひとびとの心をすさませる。
もうすぐペンションの居場所など無くなってしまうのかも知れない。
それは同時に僕の居場所がこの社会にはなくなってしまうということでもあるのだけれど。
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