曇りのち雪 気温:最低 - 7℃/最高 0℃
クリシュナムルティが言うように「思考が時間である」ということか。あるいは、ラビンドラナート・タゴールが言うように「時間は精神的な装置であり、存在しているものの相対的な位置を測るために私たちが使っている概念なのである。」ということなのか。
John Lenon が言うように「神はわれわれの苦痛を計るための概念」なのか。(God is a concept by which we measure our pain.)
世界はじつに多様な概念で充ち満ちている。
そんなことを考えていたら、2002年11月に書いたことを思い出した。いまも僕の見解は変わっていない。
---
この季節は午後5時にはもう日が暮れる。きょうは満月(月齢15)。諏訪インター方面からビーナスラインをピラタスの丘に向かって走るとつねに前方の北八ケ岳の稜線上に信じられないほど大きく丸い満月が懸かっている。直径500mほどの巨大な人工的な月が八ケ岳の稜線に鎮座して煌々(こうこう)と地表を照りつけている。ちょうどそんな感じだ。
あまりにもリアルな自然現象は、逆説的に奇妙に人工的・作為的に見えるものだ。でもこれはほんとうの満月だということを僕は知っている。この月に出会ったひとはじつに幸運だ。月齢、天候、雲の具合、月の出の時刻、地形などなど様々な要因がすべてそろった時にしか体験することが出来ない満月の情景だからだ。
ひとは様々な機会に様々な形で「神」を感じるものだ。僕はこの月に「神」を感じた。これは告白なのかも知れない。単なる描写なのかも知れない。しかし、神はなんの啓示もあたえはしないし、この美しい情景の創造者ですらない。それは神の仕事ではない。
この情景は美しい。じつに美しく感動的だ。しかし、本来的な意味において「客観的」に見るならば「美しく感動的な情景」はそこには無い。それは僕のこころの中にある。僕の精神活動の内にのみ存在する。「美」とは我々の精神の内に「構成」されるものであって、「そこに存在するもの」が単に「体験」されるものではないからだ。
様々な宗教が語る「神」はひとつのメタファーである。「神」とは「語りえぬもの」だから、そして「神」は一切「語らない」し「何かを指し示すことすらしない」からだ。それは神の無慈悲ではない、それは神の仕事ではないからだ。我々を導いたり、救ったり、罰したりするのは神の役割ではない。
この世界は「神」によってこのようにある。ただ意味もなく存在する。「無意味性」はこの世界の本質である。「啓示」はわれわれのインスピレーションに過ぎない。
宗教はそのことを「告白」すべき時である。
--
この世界は「神」によってこのようにある。ただ意味もなく存在する。「無意味性」はこの世界の本質である。「啓示」はわれわれのインスピレーションに過ぎない。
昨日僕はそのように書いた。これは僕の世界観である。しかし孤立無援の世界観ではない。
ヴィトゲンシュタインは言った、「神秘的なのは、世界がいかにあるかではなく、世界があるということなのである」。
我々は時間の中に内包されるものではない。サルトルが言うように人間実存とはそのようなものではない。あるいは、クリシュナムルティが言うように「思考が時間である」。
ラビンドラナート・タゴールは言う、
「時間は精神的な装置であり、存在しているものの相対的な位置を測るために私たちが使っている概念なのである。」
「もしリアリティをめぐるすべての知識が経験にはじまり経験に終わるとするアインシュタインが正しいならば、出来事の意味を汲みとる源となるような外郭のリアリティは存在しないことになる。」
「われわれの知覚がそのようなものであると受け止めたもの、それが世界だ。そのことを疑う者はいない。われわれは心とは鏡のようなもので、外の世界の出来事を正確に映し出すだけだと思っているからである。ところが、じつは反対で、心のほうが創造しているのである。つまり、ひとは世界を知覚することによって、自分の世界を、時間と空間の中に絶えず創造しているのである。」
折に触れて僕が言う「我々の外に景色(美・あるいは世界)は存在せず、それは我々の心の中に構成されるものなのだ」というのはそのような意味においてである。
昨日僕が書いたことは、彼らの考えに影響されたものではなく、僕自身の直感である。しかし僕は自分が孤独な夢想者でないことを知ってうれしかった。
「いまある現実はあなたが同意することによって、そのように存在している。だからあなたはあなたの現実に責任がある。」このような自分の認識に僕自身堪えがたいところがあるのだけれど、これは真実なのだ、たぶん。
--
承前。
ジョン・レノンは唄う。"God is a concept by which we measure our pain."
われわれの「世界」がそうであるのと同様にわれわれの「神」もまた「構成」された神である。
あるいはこの世の不条理を合理的に受容する(あるいは受容させる)ために創作された神である。でなければ神を語るに「奇跡」など必要ない。神の「ある」ことは集団においては伝承的事実、個人的には体験的事実だからだ。神は「様々に自身を現わす」必要などない。神はあまねく「ある」からだ。
僕は論文を書いているわけではないからこの文章は論理的にも論拠的にも「穴」だらけだ。僕は自分の体験的、個人的「神」について書いている。あるいは僕が個人的に生きている「この世界」について語っている。嫌われるのを承知で、それでも「いま」書かずにはいられないから書いている。
ジョン・レノンは神が道具存在であると唄っているわけではない、もちろんこれは「たとえ」である。「神とはわれわれが自分の苦痛を測る概念である。」
「神」は必要なのだ。僕にもあなたにも、きっと。「神が必要」なのだ。「神」が無ければ「救い」は無いから。もはやわれわれは「神」ではなく、直接的に「救い」を切望すべきなのかも知れないけれど。
最近のコメント