雪のち晴れ 気温:最低 - 10℃/最高 - 2℃
ものすごい積雪、風は無し
この二日あまり小休止はあったもののしっかりと雪が降り続いたおかげで、文字通りの「大雪」になった。ペンション・サンセットの周辺で60センチは積もっている。スキー場のゲレンデではさらに積み増していることだろう。これでもう、ゲレンデは平年並みになったといって良いと思う。ほっと一安心すると同時に、除雪のことを考えるとちょっと憂鬱でもある。なにしろ太ももまで埋まってしまうほど深い雪なのだ。
それはさておき昨日、この蓼科高原日記のブログ版である"Now He Sings, Now He Sobs."のタイトルを変えてみようと思い立った。それはたとえば「Tateshina Diary - blog version」であったり、「蓼科高原日記(ブログ版)」であったりしたのだけれど。じっさいにタイトルを変更してみると、どうにもおさまりが悪い。まるで僕のブログではないみたいだった。じつに不思議なことだ。だって、このブログのコンテンツは「蓼科高原日記」そのものなのだから。
タイトルの変更を考えるようになったのは、やはりアクセス数が少ないということ、検索エンジンに引っかかりにくいということだった。なにしろ英文のタイトルだから、引っかかりにくくてもしょうがない。それでも僕はこのタイトルがとても気に入っていて、いつかいずれかのコンテンツのメインタイトルにしようとずうっと想いつづけてきたのだった。
だからブログ版の「蓼科高原日記」を公開するときにそのタイトルにしたのは待ちに待った機会であり、必然だったのだ。ブログテンプレートのデザインもいろいろ変えてみたが、配色やデザイン以上に読みやすさを優先して現在のテンプレートでしばらくすすめていくことにした。
幸福とは寓話(ぐうわ)であり、不幸とは物語である
君は誰に対しても決して真に心を許したりしない。
いつも適切な距離を確保してその一線を越えることを許さない。
君には君自身の王国があって、絶対不可侵なのだ。
その王国以外のひとやことには、その本質において、ほとんどあるいはまったく興味がないのだ。
だから僕は君を信じることが出来ない。心から身をゆだねて愛することが出来ない、君が僕を愛していないのと同様に。
君にとって僕を含めた他者は幻影のごときものに過ぎないのかも知れない。
TVスクリーンに映し出されるドラマの俳優のように、実体のない映像でしかないのかも知れない。
僕や彼が死のうがどうしようがそれは現実ではなく、君には関係のないことなのだ。
そのように「かかわらない」ことによって君はいつでも安全な場所に身を置いて高みの見物を決め込めるわけだ。
永い長い歳月を費やして僕は自分が君を愛していないことを知った、なによりも君に愛されていないことを知った。
君は最後の最後まで僕の人生に主体的に関わることをしなかった。
僕は最後まで君の人生の舞台装置のひとつでしかなかったのだろう、失われたとしてもすぐに変わりの用意できる、すぐに忘れてしまえるような。
結局僕は君の道具存在でしかなかったのだ。
消耗し時代遅れになり機能不全になって、最後にはゴミとして捨てられる運命なのだ。
じっと固唾を呑んで死ぬのを待たれるのは何よりも不快で屈辱的だ。
自ら死を与える方がよほど誇りを持って死ぬことが出来るだろう。
この人生で結局のところ僕は何も得ることがなかった。
この人生はまったくの無意味だった。
全くの無価値だった。この僕にとってさえ。
僕は無能で、ひとのしがらみの中で生きてゆくための能力に欠け、その苦しみの中でそれでも生き続けなければならなかった。これを地上の地獄と呼ばずになんと呼べばよいのだろう。
天国なんてものはない、地獄なんてものはない。
人生の落第生はまたすぐに転生してこの地上の地獄にもどされるのだろうな。
何度転生すれば、とろけるような愛に包まれて生きることが出来るのだろうか。
「幸福とは寓話(ぐうわ)であり、不幸とは物語である。」(トルストイ)
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