曇り 気温:最低 - 8℃/最高 - 2℃
群青色の空に鋭利な刃物のような三日月が浮かんでいる。曇り空なのに、月の周囲だけは抜けたように雲がなく、やけに大きく近く見える。手を伸ばせば届きそうなほどだ。氷点下の世界ではなにもかもが凍り付いて、ぼくらにはどうにもなすすべがない。
ぼくらと冬との交信はこの寒さのみを通じて行われる。気温という実体的尺度としてではなく、感覚的なものとしての「寒さ」という尺度を使って冬はぼくらに語りかける。空も雲も雪もこの季節には本質的なメッセージを伝達するものではなくなる。ぼくらにもたらされるこの寒さ、この刺すような冷気のみが冬という季節からのメッセージなのだ。
いまぼくは穏やかな絶望の中にいる、決して失望ではなく。
昨日思わずつぶやいてしまった。
もう失望すべきものにはすべて失望し尽くしてしまった。数え切れないほどの絶望に落ち込んでははい上がってきた。だからいま絶望の中にあっても、それは穏やかな絶望として感じられるのだ。「出口がない」ことに何ら変わりはないのだけれど。
いまさら「いったいなにを信じて生きていけばいいのだ」なんて青臭いことも言えない。「なにを目指して進んでいけばいいのだろう」などと迷う歳でもない。なすべきことはわかっている、そしてそれがなしえないということも理解している。もう夢や希望を語っている季節ではないのだ。
「人生は闘いだ」という考え方もある。それはきっと正しいのだろう。しかし、戦うことを賛美するのは常に勝者のみだ。戦うことに疑念を持つ者が勝者になることは出来ない。戦うことは、競争することは楽しくスリリングだ、自分が敗者となるまでの間は。
これからの社会の本質が「競争社会」でしかないならば、弱肉強食の「生存競争」でしかないならば、ぼくはもはや生きると言うことに何の魅力も感じることが出来ない。「調和」のない世界はぼくが身を置くべき世界ではない。
この世界に神が在り、その指示が「生存競争」であるならば、そのような進化論原理主義的「神」をぼくは信じない。この世界に神が在り、その教えが「調和」であるならばぼくは喜んで帰依しよう。信仰は力であるが、宗教は強大な排他的イデオロギーでもある。その排他性が異教徒虐殺を礼賛し、戦争を聖戦として祝福する。その闘いに終わりはないのだ、原理的にも理論的にも。
強いものが弱いものを踏みにじり、闘争や戦争は絶えることがない。神は常にそこに在り、ただ沈黙している。なすべきは神の意志を推し量ることではなく、我々がどのような世界を望んでるかをヴィジョンとしてそれを実体化させることなのだ、たぶん。
羊たちの沈黙はもう許されないところまできている。
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