曇り 気温:最低 10℃/最高 18℃
午前8時、エゾハルゼミの声が聞こえる。最初に聞いたのは一週間ほど前のことだろうか。花暦は平年に比べて二週間以上遅れている印象だけれど、エゾハルゼミの出現に関しては平年並みのようだ。平日のピラタスの丘は静寂に包まれている。特にこの時間帯はそうだ。
窓外は曇り空でうっすらと霞がかかったような印象だ。外に出て深呼吸するとしっとりとした新緑の味がする。梅雨といっても蓼科は湿度がとても低い。じめじめしたところはほとんどない。いまや山を覆い尽くした新緑が雨とそして大気中のこの水蒸気を吸収して活発に生育を加速する季節だ。
梅雨が明ける頃には新緑はすっかり黒々と葉緑素を増して、様相は一変する。森は「黒い森」と変わり、真夏の高原の強烈な日差しを力一杯受け止める準備が完了する。枝を伸ばし小枝を広げ、ほかの樹木と光を奪い合うすさまじい生存競争を始める。
森では少しでも光を受け止めたものが生き残る。それを勝利と呼ぶのかどうかはわからないけれど、いずれにしても光を奪われてしまったものはしだいにその勢力を減じていく。神がこの世界をそのようにあれと思惟したのであれば、競争、闘争、戦争はこの世界の定めなのかもしれない。
それでは、平和は神の望むところではないのだろうか。いまこの世界は宗教があるがゆえに戦争が行われているように感じられるのは僕の個人的な思い過ごしに過ぎないのだろうか。なぜかどの宗教も平和と調和と唱える一方で異教徒の殲滅を教義としているように思われる、たとえそれが明示的ではないにせよ。
宗教の原則は自らが正義であり、その正義が世界を支配することであり、それはいわば異教徒皆殺しの原理なのではないか。そうだとするならば、この世界から戦争と殺戮は永遠になくならないのだろう。
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早朝から出かけて午前10時頃に戻ってくると、ピラタスの丘は間断なく歌うカッコウと多数のエゾハルゼミの歌の饗宴になっていた。彼らの奏でる音楽は執拗なまでに同じパターンを繰り返し、まるで呪術のBGMのようにも聞こえる。このポリリズムは原始的な宗教音楽を思わせる。
あらゆる知覚と認識そして直感はすべて、根源的には、宗教的体験なのかも知れない。それはすでにわれわれのDNAに組み込まれたものなのかも知れない。いずれにしても宗教のもたらすものは「身内の安寧と秩序そして平和と救済」であって、異教徒のそれではない。闘争は神の定めた根本原理なのかも知れない。
※今日の2枚目と3枚目の写真は(株)ピラタス蓼科ロープウエイの許諾を得て転載しています。ロープウエイで訪れる「坪庭(つぼにわ)」ではミネズオウが咲きました。(3枚目の写真)
※写真をクリックすると拡大いただけます。
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