曇りのち雨 気温:最低 11℃/最高 17℃
さわやかな気候です。いつものように、蓼科では残暑はまったくありません。クルマで窓全開にして走っているとウインドブレーカーを着てちょうどいい感じです。半袖では寒すぎます。
異例なのは蝉時雨(せみしぐれ)がいまだに続いていることです。これまで蓼科でなく蝉は6月に鳴くエゾハルゼミだけだったのに、今年はからからと鳴く何という蝉だろう、それがいまだに元気よく謳っているわけです。
この夏の特徴は(そうですまだ夏なのですよ)、8月下旬から9月の2度ある3連休に蓼科を訪れようというお客様が多いことです。ようやくこの季節の蓼科の良さが口づてに伝わってきたようです。文字通り「レイトサマー」です。避暑地の遅い夏はとても風情があるのです。
★★★
百日草の花言葉は「幸福」そして「別れた友への想い」。愛するものとの別れはいつも深い眠りの中から始まる。そして目覚めたときそれはすでに終わっている。いつかわれわれは目覚め、そしてそれを知らされるだけだ。
この世界はいったい深い眠りの中にあるのか、それとも明晰な白日の下にあるのか。
晩夏の木洩れ日を浴びながら歩く森の散歩道で、ふとそんなことを思った。ちらちらと踊る陽の光は、そんな僕の想いを軽くいなすかのように楽しげだった。ここではいのちがいのちそのものを楽しんでいる。限りあるからこそ、そのいのちをこころから楽しんでいるように見える。
本当のことを何も見ていない、人間の勝手な思いこみなんだろうな、たぶん。
野生の生き物も植物も本当に大変な思いをして必死に命を繋いでいるというのが本当のところなのだろう。この地へ移住して10年、ようやくぼくもそのことを「感じる」ことができるようになった。そして改めて分からなくなった。ひとはなぜ生きるのだろう。
ひとはなぜ生きるのだろう、ひとはなぜ死ぬのだろう。
「想い」はいつも伝わらない。そのような想いもこのような想いも、ほとんど伝わることなく志(こころざし)半ば(なかば)に果ててゆく。「幸福」そして「別れた友への想い」は容易には伝わらない、どれほど言葉を尽くしても。
ふと、僕は彼女と並んで歩いていることに気づく。僕らはずいぶん長い時間森の中を歩いているようだ。時間の感覚が無い。すべての感覚が思考によって形成されている世界のようだ。ここはどこなのだろう、季節はいつなのだろう、そしていま何時なのだろう。黙々と二人で歩き続ける。会話は必要ない。そもそも「彼女」は、おそらく、この世のものではないから。
彼女の肩に木洩れ日が宿る。それはちろちろと燃えるいのちの火のようにも見える。いのちは力強く同時に限りなく儚い(はかない)。名も知らぬ鳥の声がする。しかしふたたび濃密な静寂が僕らを包み込む。森の中の世界は午後から夕暮れへと向かう。彼方から聞こえるセミの声の変化がそれを知らせている。深い下草と鬱蒼と茂った木々からいまが夏の盛りであることを知る。
分厚い腐葉土を踏みしめる二人の足音だけが妙に大きく聞こえる。これは夢なのだろうか。おそらくそうなのだろう。「夢」は突然やってくる、あるいは突然「戻って」くる。
・・・「And I Love Her」より抜粋。
※写真をクリックすると拡大してご覧いただけます。(百日草)
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