晴れのち雨 気温:最低 10℃/最高 17℃
比較的暖かな天気になった。ピラタスの丘の森でも赤いものが目立つようになってきた。紅葉が始まったのだ。最盛期はおそらく10月中旬になると思うけど、それ以前から美しい紅葉を周辺の山々で楽しむことができるだろう。
★★★
夜、雨が降り始めた。予報通りなので驚かない。秋らしい静かな雨だ。さーっという柔らかな音が二重ガラス越しにかすかに聞こえる。いつもと違うのは今年は木の葉が水分を多く含んでいるので、ぱらぱらという乾いた音になっていないことだ。
秋の夜の雨、真冬の夜の雪、嫌いじゃない。まるでこの世界には自分ひとりしか残っていなくて、世界はもうすでに滅びてしまっている。僕の精神が形成するこの世界が人類が認識する最期の世界だという感覚が不思議な高揚感を呼び覚ますのだ。
変わっているのかな、僕は。
まあ、いずれにしても、孤独な幼年時代を送った子供は孤独な大人になるのだ。孤独に慣れなければ、孤独に適応しなければ生き抜けなかったのだから。僕は孤独な幼児であり、孤独な少年であり、孤独な青年であった。これは事実だ。
そしていま僕は孤独な初老の男性なのかもしれない。
書斎代わりにしている居室の大型冷蔵庫がやけにうるさい音を立てて貴重な孤独の時間を台無しにする。しかしそれもやがてコトンという音とともに静まりかえる。それと同時に何かが死に絶え、何かが僕の心に入り込んでくる。
妻はすでに僕を理解することを断念している。いや、そもそも理解しようなどと思ったことなど無かったのかもしれない。女性は男性に自分の気分や欲求や不満について過大な理解を要求しながら、男性を理解するつもりなどさらさらない。女性は自分自身のために生きている。そのように作られ、そのように運命づけられている。それが種の保存にとって最適だからだろう、たぶん。
いま僕はそのことを確信している。
良い悪いではなくて、そういうものなのだ。
男もこの年齢になったら、自分だけのために生きることを始めるべきなんだろうな。それが真の意味での「自立」ということなのだと思う。妻はもうほっといてくれという風情だし、それならもう理解しようとしたり細やかな気遣いなどむしろ迷惑なのだと考えるようになった。
男は女の都合の良い道具的存在ではないのだ。もはや僕は君無しでも生きていける。
君が勝手に生きるなら僕も勝手に生きる。結婚という形態にも形式にもこだわりはない。
愛しているかと問われれば、恋していたよと答えよう。そもそも君はどうなんだと問いたいと思う。だんまりと嘘は女の「普通の言動」だから今更驚かないけど。
雨降りの未明の黙想。
僕はもはや優しい夫ではなくひとりの男として苛烈な真実を君に求めよう。女として与えられてきた数々のアドバンテージをすべて剥奪しよう。もう「女なのだから」というエクスキューズは僕には通用しない。
女は「哀しい」から泣くのではない、「必要」があるから泣くのだ。
そのことを知ってからはもはや「女の涙」に惑わされることもなくなった。
きみは僕の前にひとりの成熟した人間として誠実に立つ以外に、あるいは自立した心優しい女性として寄り添う以外に僕との関係を維持することはできない。
何しろ僕は自立した孤独な男なのだから。
自立とはそのように過酷な生き様、逃げようのない責任の上に立った生き方なのだということを、いいかげんに認識して欲しいのだよね。
もちろん、これは一般論だ。
これは僕の家庭のノンフィクションではない、念のため。
熟年離婚だの、年金分割離婚だのという世相を鑑みるにつけ、世の男性のあまりにもイノセントな優しさに腹を立てているのだ。世の中どちらか一方が悪いなんてことはないんだ。
一方的に主張される女性原理に対しては男どもは黙っていないで、苛烈な男性原理を持って主張すべきことを主張し対抗すべきなのだ。
そうでなければ、永遠に相互理解など成立しない。
そもそも結婚制度なんてものはすでに崩壊しているのだから、かたちにこだわることはない。
結婚なんてものにはそもそも実体など無いのだ。
しっかりした共通のビジョンがなければ雲散霧消(うんさんむしょう)してしまう。
それは相互努力によって創造される心優しい共同幻想に過ぎない。
そのことを知らねばならない。
もっとも女性は男性と相互理解しあいたいなどとは思ってはいないだろうけど。
男も女も自由に生きればいい。
特に男は、もっともっと自由に生きればいい。
男もまた自分のためだけに生きることを学ぶ必要がある。
それをしないから「自立していない」などと言われるのだ。
僕はそう思うね。
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