晴れのち曇り 気温:最低 - 1℃/最高 + 6℃
未明から始まる野鳥の歌の饗宴が心地よい。まどろみの中で、様々な夢を見る。ウグイスがやってくる。ホォォォオオオケキョケッキョ!
ずっこけてしまう。なんとも間の抜けた歌声だ。昔の凛とした歌声はもう聞けないのだろうか。全国的にウグイスの歌が変になって久しい。理由は、わからない。しかし、それはどんどんひどくなっている。少なくともこれは進化とは逆方向のムーブメントだ。
そのことを別にすればやはりウグイスの歌声は心地よい。ホトトギス、アカハラとならんでピラタスの丘を彩る美声の御三家といって良いと思う。
猛烈な勢いで雪が溶け、強い陽射しに気化して空へとのぼる。それが「春霞(はるがすみ)」だ。そのせいか、朝のうち晴れ午後になって曇りという天気が繰り返す。雨は降らない。陽射しは熱線というべき強いエネルギーを地表にもたらしている。根雪はあと数日で姿を消すだろう。
一日の間に野鳥たちが押し黙る期間が数回あり、そのときにはピラタスの丘は信じられないほどの静寂に包まれる。家の中にいてもそのことがわかる。音楽を聴いていても耳の奥からキーンという耳鳴りのような音が聞こえ始めるからだ。いま初めて知る、これが「サウンド・オブ・サイレンス」なのだ、と。
外に出ると温かい。しかしこれは春の陽射しのもたらしたぬくもりに過ぎないことを知る。一瞬吹き抜ける風のあまりの冷たさに驚いてあわてて家の中に戻る。それはまるで冷凍庫から流れ出す冷気のようだ。冷たいと言うよりは「痛い」風だ。
この冷たい風は真夏になっても変わらずに吹き続ける風だ。蓼科の風はいつも冷風であり、涼風である。それは湿度が極端に低いという気候にも影響されているのかも知れない。湿度が低いほど同じ気温でもより冷たく寒く感じるものなのだ。
中庭の犬舎の中でシベリアンハスキーのパルがまどろんでいる。ふるさとのそれに似たさらさらと吹き抜ける冷風を心地よさそうに味わっているかのようだ。静かだ、本当に静かだ。豊かな自然の本質の一要素として、個人的にはこの静けさをまず挙げたいと思う。
蓼科には見るべきものが何もないというひとがいた。それは一面の真実ではあるかも知れない。しかし、ひとは自分の見たいものだけを自分の見たいようにしか見ないものだ。もし何もないと感じるのならば、それはあなたが見たいと思わないからなのだ。
何もないようでありながらすべてがある土地、それが蓼科なのだと、個人的にはそう思っている。見ようとする心の動きがあるならば、それはきっとそこにあるのだ。心を開いて自然と対峙するならば、あるいは自然の中に浸りきってみたならば、そのことがきっとわかることだろう。
そうした意味において、蓼科という地はいつしかひとを形而上学的思惟へといざなう。たとえ彼が形而上学なんてまったく理解していなかったとしても。これは僕の実体験だから、間違いない。
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