瞑想が僕に教えてくれたこと
昨夜寝る前に久しぶりに瞑想をしました。ずうっと行なっていなかったのですが、その必要を感じたのです。物事が悪い方悪い方へと進んでいくように感じているからです。世界的にもそうですが、個人的にもそう感じています。
結局のところ「世界」というものは「自分の在りよう」ですから、まず根元的な自分自身の在りようをしっかりとしなければなりません。参拝、参詣でもいいですし、宗教的な祈りでも座禅でも同様の効果(?)があるのかも知れませんが、たまさか僕の場合は「瞑想」が一番なのです。
瞑想していると僕はまず僕自身になります。純粋に「僕自身が在る」という状態になって、つぎに「僕」がなくなって「在る」ということだけが残ります。そして気づくとそのとき「僕という個別の存在」を越えて「在るということ」の本質のみを感じる。そこには「自」と「他」の境界線も無く、「意識がない」ということもなく「意識がある」ということもなく、最後には「在る」ということもなくなって「充足した空(くう)」、存在で充満した空(くう)になります。
「何にもないけれど全てがある」という状態です。「存在」で充満した「空(くう)」です。もしかしたらこれが般若心経が語っている世界なのかも知れません。
そこから「現実=実際的世界」にもどって活動すると、物事がよりよく進められるような気がしているのですが、実際のところはどうなのか僕には断言できません。ごく普通のシンドイ人生です。実のところ僕は信仰を持たないただの「たまに瞑想するひと」ですから。(笑)
そんな僕がいうのも何なのですが、現代の宗教は現象面に限っていうならばかなりおかしい。宗教のために殺し合ったり争ったりいがみ合ったり・・・。まあ、昔からそうだけど・・・。
「神」とよばれる存在が在るならばそれは唯一無二であると同時に「これ」でもなく「それ」でもなく「あまねくすべて」なのだから、「異教徒」などありえない。宗教に違いがあるとすればそれは「神との向き合い方の違い」だけではないでしょうか。
「神」は教義や戒律を説いたりしないし、崇拝を強いたりしない。それは人間が神を「認識」しようとする過程で人間が作り上げた体系に過ぎない。そうした意味においてこの世に「正しい宗教」は存在しない。
ただ「自分に合った宗教」はあるかもしれない。為政者に都合のよい宗教はあるかもしれない。あらゆる宗教において未だかつて神が命じた「聖戦」など存在しない。その戦争をどのような名で呼ぼうとも、戦いを命じるのはいつも神の名を借りた権力者である。
米国が日本に原爆を投下したとき、米国の民の信ずる神は、作戦実行者たちの祈りを受け入れたのだろうか。その未曾有の大量無差別虐殺を祝福したのだろうか?その殺戮を支持し成功を手助けしたのだろうか?もしそうならば、それは「神」などではない。
それはさておき、確固たる信仰を持つことはとても尊いことだと思っています。それは素晴らしいことです。信仰の道しるべとなるべく、宗教はあるのではないかと思います。それが真の宗教の姿であり、在りようではないかとも。門外漢がこんなことを言うのは大変僭越なのですが。
そんなことを思う今日この頃です。
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