(承前)
以下は観ての通りだいぶ昔の「蓼科高原日記」の記事である。
とても長い文章なので、携帯からアクセスしている方は覚悟していただくか読むことを断念した方がいいかもしれない。
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2003.01.16(木)----晴れ 気温 = 最低 -15度/ 最高 -4度
『17歳の私は50歳の私を想像することすらできなかった。それはまるで20世紀にあって30世紀の世界を想像するよりも困難なことだった。50歳の自分を想像することは永遠を思うのと等しい行為だった。しかし、ひとは確実に歳をとり確実に50歳になるのだ、この私が証明しているように。』
それは百億光年離れた恒星のほのかな光を求めて夜空を見上げるような気分だった。しかしいままさに私はその場所に立っているのだ。なんということだろう。しかし明確に実感できるのは「こころに年齢は無い」ということだ。私のこころは時に15歳の少年であり、時に24歳の青年であり、そして時に50歳の初老の男性である。
もっと大切なことを書いておかなければならない。それは「私はうそつきだ」ということである。これは「日記」ではあるけれど、決してプライベートな日記ではない。私小説的な文章ですらないのだ。これは「公開を前提に描かれた自画像」とでもいうべきフィクションである。ほら、よくある「これは事実をもとに構成されたフィクションです。」というやつなのだ。
ひとは理解されたいと切望するものだけれど、誤った理解をされるよりはむしろ全く誤解されるか全く理解されないほうがましだと私は考えるものである。
さて、こころは歳を取らないという話だ。私はこの世に生をうけてからこれまでのすべての瞬間のこころを50歳のこころに内包して生きている。目を閉じれば自分の中にある広大な薄明の世界を感じることができる。それは私にとっての「この世界」である。そこでは愛する者たちが息づく私のコアとでも呼ぶべき部分が本来の姿で存在している「私の世界」である。
私の肉体が生命を失って滅び消え去っても私のこの世界は存在し続ける、たぶん。「私の『この世界』」はわれわれが「現実」と呼ぶ世界に属さないからだ。それをひとは「永遠」と呼ぶべきなのだろうか。
私という存在が消え去ってもすべてが失われるわけではない。私は無に帰すが、「無」は「非存在」ではない。「無」は存在する。あるいは「存在される」。「無」は「存在」の対立概念ではない。私は無の彼方へ没するのではなく「空(くう)」のなかに含まれる。空(くう)とは存在の充満する無である。ドゥルーズ=ガタリならこれを「カオス(混沌)」と呼ぶかもしれない。しかしそれは秩序ある創造的・知性的カオスなのだ。いずれにしても「私のこの世界」はそのような空(くう)に永遠に同化する。
まあ、空(くう)というのは実際にそれらしきものを体験してみないことには理解不能だとは思うけれど、体験的には(般若心経にもあるとおり)「なんにもないけれどすべてがある、存在で充満した空っぽの世界」だ。これは論理的には全く理解不能なひとつの事実だ。やはり自分で実際に体験するほかないのだろう。
(つづく)
☆たてしなラヂヲ☆
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