今日は何を書こうかな、なんてふうに考えて書いているわけではないのです。その時の自分の気分みたいなものをそのまま書いているような気さえします。そうした意味においていうならば、この日記は正真正銘の「駄文(だぶん)」です。読んでいただいている方には大変申し訳ないと思っていますが、ぼくは元来そういうひとなのです。 しかし書いてあることは本心だし、プライバシーの保護のためのフィクション化という一点を除けば、すべて本当のことです。 この日記の本質は米国の哲学者にして心理学者であるウイリアムズ・ジェイムズの言うところの「意識の流れ」を記録したようなものです。あるいはシュールレアリズムの言うところの「自動書記」に近いのかも知れない。いずれにしてもぼくの内面に映し出された情景なり風景なりを記したものです。それをぼくの「想い」と感じておられる方もいらっしゃるようですがそれは当たっています。 今日ある方から心温まるメールをいただきました。そこにはここ数ヶ月日記を読むたびに胸の詰まる思いがしたとしたためられていました。ああ、本当に申し訳ないことをしてしまったと思うと同時にぼくの「想い」を確実に受け止めて下さっている方がいらしたのだとなんだかとても救われた思いがしました。 ぼくがぼくである限り、自分が自分であることを望む限り、この「苦悩」としか呼びようのない想いは終わることはないのかも知れません。それは自分が自分であるための「対価」なのかもしれません。それはぼくがこの世界に「実存」することの重さ、存在の重さだと感じています。自分という存在の重さは、それを自分一人で支えようとしてみれば、それが耐え難い重さであることを思い知らされます。これはきっと何かの「罰」なのだとさえ思われるのです。 だからこそひとは支え合って生きてゆかなければならないのかも知れません。それはひとつの「救済」です。しかし、支え合って生きてゆくという道を選べない人生だってあるのです。もちろん(少なくとも見かけ上は)自分自身で選ぶ道ではあるのですが。その道をゆく以外に自分を自分として束ねておくことができない、自分を自分として形成し続けることができない人間もこの世界にはいるのです。 以前にも書いたとおり、ぼくはどちらと言われれば、「観念世界」に生きる人間です。いわば鏡の反対側、「現実世界」に力強く生きる方々には理解不能なことばかり書いているのかも知れません。「やわ」な「泣き言」ばかり書いているように感じられるかも知れません。しかしこれがぼくが身を置く世界なのです。それはそれでそちらの世界と同じかそれ以上に「タフな世界」です。 --- ●ペンション・サンセット ●蓼科高原日記 ☆たてしなラヂオ☆
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