さて、昨日は「自らの内的自然にありのままに沿い、自分を取り巻く自然に対しても成すがままに沿い、そのように生きるひとびとの強さたくましさにはとてもかないません。」と書きました。しかしそれには続きがあるのです。動物として生きるならそれだけでよいのです。しかし人間は動物であると同時に、そうではない局面を持った存在でもあるからです。 「ただ生きるために生きる」という、生きる目的と生きることとが同じものであるような、抽象的思考の無い、きわめて即物的で具象的な「生活」こそ生命の本質的スタイルなのかも知れません。しかし、この世界で人間のおかれた位置はそれ以上のものであると、かろうじて今のところまでは、思うのです。 だからこそ、人間の中に抽象的思考力を持った、そのような観念的・理念的世界に生きる者が出現することは必然であったようにも思います。「ただ生きるために生きる」という第一義的な観点からはそのような「異端者」は何ら生産性を持たないという点において生活共同体に寄生する「厄介者」かも知れないし、実際にそのように扱われてもしかたがない。 しかしそのような境遇の中で与えられた一定の自由空間の中で彼らは観念世界における飛翔をはじめました、つまり「夢見ること」を始めたのです。これはひとびとが第一義的な生きるために生きるということを為し遂げ精神活動に費やす余力を持つにいたった時点できわめて重要なさきがけとなったのです。近世に生きた彼らを原初的「知識人」と呼んで良いのかどうかわかりませんが、近代そして現代の「知識人」の原型をなす存在であったであろうことは確かではないでしょうか。 ことそこにいたって初めてそれと意図された「知的生産」が始まったのかもしれない。しかしそれとても「衣食足りて」初めて「価値」として機能する第二義的生産であることにかわりはなく、それが「知識人」の致命的な欠落要素であるように思われます。つまり「知識人」でありつづけるためにはサポーターないしはパトロンが必須であるという厳然たる事実です。ひとりの人間がその両方を兼ね備えるということは極めて困難でありきわめてまれなことだからです。 飢餓状況の中では「一粒の豆」と「ひとつの真実の命題」とどちらが救いとなるかは、生きるという観点からは明瞭です。しかし「一粒の豆」では生きながらえることかなわず結局死にゆくしかないならば「ひとつの真理の言葉」こそが最後まで「人間存在」として死にゆくための唯一の救いになるのかも知れません。 --- ●ペンション・サンセット ●蓼科高原日記 ☆たてしなラヂオ☆
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