全国的にそうだったようだけれど、異様に暖かい夜が明けて、異様に温かな一日になった。とても冬とは思えないような生暖かい風が吹き、舗装道路の雪が溶け出し、屋根の雪が落ちた。ゲレンデの雪も3月みたいに水気が出たと思うけれど、ゲレンデの積雪はそう簡単に溶けないから大丈夫。 今日のように生暖かな日には僕はスキーをやらない。基本的には氷点下でないといやなのだ。そうでないとスキーをしている感じがしない。僕にとってスキーは氷点下のスポーツなのだ。これは贅沢かな。でもそうなのだからしょうがない、と言うことで今日のスキーは中止した。時間がとれるときにはこんな感じでどうもうまくいかないものだ。 きょうはちょっと古い記事を引用します。 現在はどのように状況が変わっているのでしょうかね。 ----- 日経BP(2006年2月14日号)からの引用(ここから) ----- ■日本人にとってケータイは“自我の一部” ──正高教授は著書『ケータイを持ったサル』や『考えないヒト』などの中で、日 本ではIT社会の到来によって、様々な弊害が起きていると警鐘を鳴らされています。 なぜ、弊害が起きているのか、考えをお聞かせ下さい。 正高氏:私はIT社会を象徴する最たるものはケータイだと考えています。ケータイ は一般的には、“コミュニケーション・ツール”だと認識されていますが、私は既 に、日本においてはコミュニケーションのためのツールではないととらえています。 今や日本人にとってケータイは“自我の一部”になってしまっているのです。 日本では、四六時中、ケータイを使ってメールのやり取りをしている光景を至る 所で目にしますが、欧米ではそういったことはありません。なぜ日本ではそういっ た現象が起こっているのか?理由は簡単です。我々、特にビジネスパーソンがモデ ルにし、目指してきた欧米のIT社会における個人のあり方と、日本人の個人のあり 方が根本的に全く異なるからです。つまり、西洋の近代主義が確立した“個人”と いうものが日本にはないのです。 日本における個人とは、“周囲との人間関係も包含したもの”です。一方、欧米 の場合、「私は私、あなたはあなた」といったように、個人同士の間にある垣根が しっかりとしていて、その個人と個人の間にあるものが“付き合い”であり、その 付き合いを円滑にするためのツールとして、ケータイやEメールを使っているので す。 しかし、日本のように、個人の垣根が低い国民性の中に、ケータイのようなもの が入ってくると、元来“ツール”であるべきものが、“自我の一部”になってしま い、今のような現象が起こるというわけです。換言すると、元々低かった個人の垣 根を超えるためのコミュニケーション・ツールとして、あまりにも日本人の国民性 にピッタリ合っていたことが、ケータイが急速に普及していった最大の要因だと私 は見ています。 ----- 日経BP(2006年2月14日号)からの引用(ここまで) ----- まさにこれこそが僕が地域共同体における「公的自我」と呼んだものだ。本来人間として独立しているためには近代西洋において苦しみ抜いたあげくに確立された自我=「個としての自我」=「私的自我」が必要なのだ。僕がケータイに違和感を抱き続けてきた理由が見えてきた。 ケータイによって担保されているのは横並びの安心感だけであって、真のコミュニケーションはそこには存在しない。真の個人関係はそこには成立していない。弱々しい「個」が互いに浸潤しあうためのツールに過ぎない。互いの個を浸潤しあうことによってなにが得られなにが失われるのか、寡聞にして僕は知らない。 --- ●ペンション・サンセット ●蓼科高原日記 ☆たてしなラヂオ☆
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