以下は2007年03月22日に僕が書いた記事です。 たまたま見つけて、自分でもちょっと驚いています。 ★★★ この11年間ブログ書いてきて、なにを持ってしても伝えることの出来ないことがあるということを思い知った。 それは百万の言葉でも数千万の写真でも伝えることの出来ないものだ。いまここにあって、はじめて感じることの出来るもの、そういうものやことがあるのだ。 しかし人々はそのようなモノやコトをわかりやすく伝えることを求める。 ユビキタスだか情報革命だかなんだか知らないけど、そういうことを伝えることが可能なインフラと技術とが実現された時代になったのだと信じ込んでいる。 それは誤った認識であり、いわば都市伝説にも似た経済伝説あるいは粉飾された技術革新宣言にすぎない。 ケータイが我々の本質的ななにかを変えただろうか、イエス、なにかとても大きなものを変えてしまった。 インターネットが我々の本質的ななにかを変えただろうか、イエス、なにかを劇的に変化させてしまった。 それによってわれわれは幸福になっただろうか。 社会は啓発され安全で明るいものになっただろうか。 ノー、じつはその正反対のことが起きているように感じるのは間違った認識なのだろうか。 そのような情報革命によって情報過多社会になったために我々の情報処理能力は疲弊して、目は曇り理解力は鈍り、気づかないうちに既得権者がその特権と利益をますます増大させることを保証する社会になってしまった。 小泉政権から安倍政権へとひきつがれたこの流れは変わることなく続いている。 時代は逆行している、かつての資本家と労働者という昔懐かしい構図がいまの社会にもすっきりと当てはまるではないか。 これに対してアンチテーゼを示さなければならないのに、それがなされにくいのは、「情報化社会」あるいは「構造改革」という名の空虚なテーゼあるいはプロパガンダが浸透してしまったせいだ。 これらのお題目はそれに異を唱えるものを異端者として排斥するためのシステムとして「考案」されたものだったのだ。いまさら気づいても遅いかも知れない。 格差社会を目指すものがこの国を動かすシステムの中枢を占め、異を唱える大多数の領民(国民なんかじゃない、もはや)の声はかき消される。 ぼくは旧来よりノンポリティカルな人間だけれど、その僕でさえそんなふうに思わざるを得ない昨今だ。 北朝鮮やイラクやテロリストたちは、そのような画策から自国民の目をそらすための「悪役」を演じさせられているだけなのかも知れない。 こちら側の世界から観れば、確かにかれらは間違ったことを行っているのだから、それを改めさせることは必須なのかも知れない。 が、そのプロセスを自分の企図に利用している勢力の存在を僕は感じるのだ。 (蓼科高原日記より引用:公開日時: 2007年03月22日 17:59) ★★★ ここから今日の記事の続きね: この記事のあと、現実の日本社会がどうなったかはいま目の前にある通りなのねー。 これを書いた当時はなんの反応もなかったのを良く覚えているけれど、どうしてだったんでしょうねー。 ラヂヲにはそれが不思議でならなかったです、はいー。 (@_@) 追記: この記事は政治的発言ではないので「IT革命と思考停止」というタイトルがふさわしいかもしれない記事であることにいま気づきました。が、どちらも正しいタイトルだと思うのでこのままにしますね。 --- ●ペンション・サンセット ●蓼科高原日記 ☆たてしなラヂオ☆
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