晴れ 気温:最低 - 7℃/最高 2℃
最近元気が出ないときには aerosmith の Walk This Way の入ったアルバムをよく聴いている。特にこの曲はTVの「踊るさんま御殿」でも使われているので聞き覚えのある人も多いと思う。最近はソフトバンクのケータイのCMでも使われているしね。なにやらとっても元気が出る曲なのだ。
でも車に乗っているときによく聴くのはやっぱりジャズだ。自然にそうなってしまう。波長が合うというか、ジャズの波動が僕には心地よいのだ。まあもともと40年来のモダンジャズファンではあるわけだけれど。15の歳から新宿のライヴハウスに出入りしていたっけ。
とうことで僕の人生のBGMはロックというよりはジャズなのだと思う。もちろん思春期にはロックバンドを組んであちこちのコンテストに出て入賞してこともあるほど勉強そっちのけでのめり込んでいたのだけれど、cream を聴いたのがきっかけでジャズへと指向性が変わっていったのだった。
ということで僕の高校時代は学業に関してはある種の空白地帯になっている。最後の数ヶ月で集中して受験勉強して運良く○○ボーイなんて言われるような大学に滑り込んだものの、入ってからがたいへんだった。基礎学力がないんだもの。受験には強かったのだけれど。
ということで、僕の大学時代は学業とジャズの2本柱となった。それ以外は一切記憶にないほどだ。目がつぶれるんじゃないかと思うほど本を読み、受験勉強なんて問題にならないほど勉強し、寝ても覚めてもジャズを聴き、演奏した。それは明日の見えないラッシュライフだった。僕は未だ何者でもなかったし、そもそも何者かになれるかどうかすらわからなかったのだから。
そして超有名企業に就職した。なんのことはない、いま思えば受験と同じことを繰り返しただけだった。運が良かっただけ、というのも大学受験の時と同様だった。僕は何者にもなれなかった。そして耐え難い異文化の中で20年分の違和感を体内にため込んで、そこを去った。
で、いまここにいるわけだ。なんなんだ、これは、とも思うけれど、少なくともいまの僕は自分自身だと確信している。自分が自分であると断言できる。僕は自分になるために蓼科にやってきたのだ、たぶん。それはあらかじめ決められたことだったのだ。そこに至るまでにどのような異なった道を選択していたとしても、結局僕は蓼科にやってきて骨を埋めることになったのだろう。
こういうのって「運命」と呼ぶべきなのか「宿命」と呼ぶべきなのか。
だから僕の人生には「もしも」は無い。あるのは「いま、ここに、ある」という確信と、これで正しかったのだ、これでよいのだという想いだけだ。
今日の夕景は絶品で、脇見運転になってしまってちょっと危ないほどだった。この季節はあたりまえのように毎夕このような情景が展開される。夕暮れの情景が好きな人には超おすすめの季節だ。
晴れのち雨 気温:最低 3℃/最高 12℃
村上春樹の「海辺のカフカ」に主要なモチーフとして登場するベートーベンの「ピアノ三重奏曲第7番」、通称「大公トリオ」のCDを購入して毎日聴いています。作中に登場するいわゆる「百万ドルトリオ」といわれたルービンシュタイン(ピアノ)、ハイフェッツ(ヴァイオリン)、フォイアマン(チェロ)による白熱した演奏です。
1941年のレコーディングだから当然SPレコードでリリースされたものです。その後LP版となり現在ではデジタル・リマスタリングされたこのCD版で入手することができるのですが、音質に関してはその時代なりのものなのは致し方ないでしょう。だから「音」ではなく「音楽」を聴くことができるかどうかがこの希有な名演奏との運命的な出会いを果たす条件となるかもしれないですね。
僕の場合はどうだったかというと、25年前のアンティークなハイエンド・オーディオセット(マッキントッシュのソリッドステート・アンプ+JBLランサー101)で聴くと、その迫力に思わず手に汗握ってしまいました。正直肩が凝ってしまうほどの息詰まるやりとりがそこにあったからです。しかし静まり返った深夜にヘッドフォーンでこのアルバムを改めて聴いてみると、じつに不思議な体験をすることになったわけです。
感動したというのともちょっと違う、いったいなんだろう、とにかく胸がジーンと熱くなってきたのです。40年来のモダン・ジャズ愛好家なのだけれど、巨匠3人の熱い鉄を打ち合うようなインタープレイに背筋がぞくぞくしてきました。それはまるで60年代のマイルス・デイヴィス・クインテットのライヴ・アルバムを聴くときのような静かで熱い興奮です。音楽にジャンルは関係ないとあらためて確信した出来事でした。
「海辺のカフカ」で喫茶店のマスターが語ったのはこちらの演奏、そして作中のホシノ君が購入して聴いた「心温まる」ほう の「大公トリオ」はおそらくカザルスの演奏なのだと思います。そちらも是非聴いてみたいと思っています。
改めて思ったのですが、やっぱりクラシックは管球式のアンプでタンノイのスピーカーを鳴らして聴くのが個人的には理想ですね。暖かで柔らかなその音色はきっとこの演奏をもっとふくよかに響かせさらなる感銘を与えてくれるに違いない。
なんてことを書きながら、なんとなく最近スノッブな語りになっているなあと感じるのです。それは自覚しているのです。ただ、どうしてそうなるのかがわからない。もしかしたら、自発的にある種のフィルターをかけて書いているせいかもしれません。
自主規制しすぎると「心ここにあらず」という状態になってきてしまうみたいで、これはいけない。かといって傲慢無礼にとられるような文体や調子になってしまってもいけないし。技術的な問題を別としてもまずは人間を磨かないといけないのでしょう。僕のような未熟者はひとの何倍もその点では努力しないといけないのだといまさらながら反省しています。
ここまで書いたところで雨音に気づきました。天気予報では午前0時過ぎから雨のマークになっていたので油断していました。明日すぐにクルマを使えるように車体カバーを外しておかなければならないのでした。ようやくカバーを収納した頃から急激に本降りになりました。しばらく雨が降っていなかったので、サイクルから考えると予報どおり明日、明後日は雨がちになるのでしょう。
昨日から落葉が本格的に始まって、処理しても処理してもあっという間にもと通りの「落ち葉の絨緞」に戻ってしまいます。雪かきと同じです。これも「行(ぎょう)」だと考えて淡々と行うほか無いです。当地では落ち葉の量が半端ではないので、竹箒なんかではらちがあきません。牧場で干し草を移動する時みたいに大きな熊手でかき集めては大きな段ボール箱に詰め込んで腐葉土が必要な場所に移動します。
この時期は一日で軽トラック3台分ほどの落ち葉を処分しなければならないのでけっこう重労働です。雪の場合と同じでまさに「落ち葉との闘い」です。個人的には落ち葉の絨緞を踏みしめて歩くときの感触が好きなので、あんまりきれいさっぱりと処分してしまうのももったいない気もするのですが、みなさんはいかがでしょうか。
紅葉はペンション・サンセットの標高ではこれで終わりますが、ほんの50mほど標高が低いところではちょうど最盛期になっています。そんなふうに紅葉は山を下って里へと向かうのです。ですから標高1200m付近の蓼科湖では10月末頃が紅葉の最盛期になります。そんなふうに蓼科の紅葉は10月上旬の山岳部から始まり11月上旬の湖沼部へと1か月以上かけて下っていくのです。ということですから、まだまだ、高原の紅葉を楽しむことができます。
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