雨のち曇り 気温:最低 5℃/最高 9℃
やはりそのようですね、小泉政権があんなにうけたのはその「わかりやすさ」ゆえだったのです。しかしそのわかりやすさの質はじつに危険をはらんだものでした。
「わかりやすさ」にはふたとおりあります:
(1)伝えるべきことを凝縮し吟味し尽くしたことによる「わかりやすさ」
(2)言葉に多義性を持たせ相手が勝手に納得するようにし向けた「わかりやすさ」
もちろん、本来の「わかりやすさ」とは(1)をさします。
小泉さんのは(2)の典型でしたね。
「広告は議論ではなく誘惑なのだ」というのは真理で、その観点からすればホームページの「わかりやすさ」とは(2)に当たるのではないかと思います。
試しに《別途》そういうホームページを作ってみようと思っています。
上記(2)のパターンまではいかないまでも、「簡潔」なホームページというのは文章を読むことが嫌いな人には親切ではないかとも思います。「簡潔な文章」ではなく、「写真と見出しと簡潔な説明文だけ」のホームページを構想しています。
★★★
昨夜からの雨は夜通し降り続け、未明には強風をともなった荒天となり、激しい雷雨にまでなりました。天から神が振り下ろしたような巨大な雷(いかづち)に眼が醒めました。ばあーん、がしゃーんと轟音がして、半径50m〜100m以内に落雷が連続したのでした。
おそらくロープウエイ近くの電柱に落ちたのだろうと思いました。最近は落雷対策として電柱には驚くほど太いアース線がてっぺんから地中深くまで埋め込まれているからです。落雷による障害を避けるために電柱そのものを避雷針にしてしまうという発想で、かなりうまく機能しているようです。
そのおかげか、起き出して電源をチェックしてみましたが停電の形跡はありません。また電話回線やインターネット回線も異常なく機能していました。
強風は午前中いっぱい吹き続けて、午後にはおさまりましたが、ペンション・サンセットの周囲の紅葉はあらかた吹き飛ばされて落葉しました。紅葉のじゅうたんを踏みしめる感触は最高で、地面を埋め尽くした紅葉はとても美しいものです。しかし驚くべきことに、標高が50m〜100m低いところではちょうど紅葉の盛りなのでした。
曇りのち雨 気温:最低 6℃/最高 14℃
朝、雨は止んでいました。予報どおり日中は曇り空になりました。午後4時過ぎにふたたび雨が降り始めあっという間に本降りになりました。これは天気予報よりちょっと早かった。今日はちょっと憂鬱です。僕のペンションのコンセプトが時代のツボを外しているような気がするからです。
ツボを外しているからと言って、これは僕の生き方の問題なのでおいそれと変更するわけにはいかないし、ペンションを純粋な商売とは考えたくないので、そういう観点からはどうしようもないのだけれど。やっぱり集客のためのホームページはプロに頼んでお客様受けの良いものに徹したほうがいいのではないかと思い始めています。
なにを書いても、なにを語ってもなにも伝わっていないような気がしてきています。パワーポイントで作ったプレゼンテーション資料みたいなホームページのペンションの方が集客実績が高いように感じるのです。そのほうが効率的に集客できているように感じるのです。
みんなものを考えなくなってしまった、少なくとも考えるひとの絶対数が減ってきているのを実感しています。ペンション選びなんてホームページを開いて上っ面をさらっと眺めて感覚的に「印象」だけで決めてしまっているように感じます。あるいは貸し切り温泉露天風呂の写真が載っていたとか、料理の写真がきれいだとか。宣伝上手だとか。
それは普通の行動ではあるけれど、それだけではただ宣伝に乗せられているだけで、ご自身で選択しているとは言えないと思うのです。まあ、ペンションごときを選ぶのにそんなに労力なんて使えるかってことなのかも知れませんけれど。
立地や設備、サービスの内容やお料理のレベルや接客の丁寧さ、親切さのどれをとっても他の同価格帯のペンションと比べて同等かそれ以上なのに、このホームページではそのことを伝えることができていないのかも知れません。そのことを検証し、反省しなければならないのかも知れません。(もっと宣伝上手にならなければいけない、もっと宣伝に徹しなければいけないのかも知れません)
そもそもこんなに手間暇かけてホームページを運営していること自体、間違っているのかも知れません。もっと他にやらなければならないことが山積しているのですから。それでもやめないのはいまの時代性に「ノー」と言い続けたいからです。
何でもかんでも「手っ取り早く」という風潮に異議を唱えたいからです。逼迫したニーズがあるときのネットショップの「手っ取り早さ」や「迅速性」はじつにありがたいもので、僕も日常的に利用しているのですが、それとは違うものもあると思うのです。ペンションは「商品(モノ)」ではありませんから、違った選択基準を持ってみてほしいなんて僭越なことを願ったりしています。
「スローライフ」なんてことが喧伝されていますけれど、実際の行動はちっとも「スロー」では無いどころか「スロー」を許容しないというのが現代社会の実相だと思います。スピードを要求されないプライベート・ライフにおいてすら仕事と同じペースで事を行おうとしているように見えるのです。
そんなに生き急いだって、人生の長さも密度も変わらないのです。じっくり味わったり、じっくり鑑賞したり、じっくり考えたりということによって、人生はじつに味わい深いものになるのだと思います。そして蓼科は、少なくともペンション・サンセットは、ラッシュライフとでも言うべき現代の生活からいっとき逃れ出て「スローダウン」する場所なのです。
僕はそのような理念を持ってペンションを始めました。自分自身が「ラッシュライフ」のまっただ中で疲労し疲弊してしまった1人ですから。秒単位の生活、一日に20時間以上働く生活、休日のない人生を20年近くも送った人間ですから、そのことが痛いほどわかるのです。
だからどうかもうこれ以上急がないでください、身近にありながら気づくことの無かった様々なものに気づき、それをじっくりと味わってほしいのです、自分の呼吸する音が聞こえるほどの森の静寂とゆったりとした時間の流れに身をゆだねて本来のご自分を取り戻していただきたいのです。
それだけが僕の後半生の願いです。
晴れのち雨 気温:最低 3℃/最高 12℃
村上春樹の「海辺のカフカ」に主要なモチーフとして登場するベートーベンの「ピアノ三重奏曲第7番」、通称「大公トリオ」のCDを購入して毎日聴いています。作中に登場するいわゆる「百万ドルトリオ」といわれたルービンシュタイン(ピアノ)、ハイフェッツ(ヴァイオリン)、フォイアマン(チェロ)による白熱した演奏です。
1941年のレコーディングだから当然SPレコードでリリースされたものです。その後LP版となり現在ではデジタル・リマスタリングされたこのCD版で入手することができるのですが、音質に関してはその時代なりのものなのは致し方ないでしょう。だから「音」ではなく「音楽」を聴くことができるかどうかがこの希有な名演奏との運命的な出会いを果たす条件となるかもしれないですね。
僕の場合はどうだったかというと、25年前のアンティークなハイエンド・オーディオセット(マッキントッシュのソリッドステート・アンプ+JBLランサー101)で聴くと、その迫力に思わず手に汗握ってしまいました。正直肩が凝ってしまうほどの息詰まるやりとりがそこにあったからです。しかし静まり返った深夜にヘッドフォーンでこのアルバムを改めて聴いてみると、じつに不思議な体験をすることになったわけです。
感動したというのともちょっと違う、いったいなんだろう、とにかく胸がジーンと熱くなってきたのです。40年来のモダン・ジャズ愛好家なのだけれど、巨匠3人の熱い鉄を打ち合うようなインタープレイに背筋がぞくぞくしてきました。それはまるで60年代のマイルス・デイヴィス・クインテットのライヴ・アルバムを聴くときのような静かで熱い興奮です。音楽にジャンルは関係ないとあらためて確信した出来事でした。
「海辺のカフカ」で喫茶店のマスターが語ったのはこちらの演奏、そして作中のホシノ君が購入して聴いた「心温まる」ほう の「大公トリオ」はおそらくカザルスの演奏なのだと思います。そちらも是非聴いてみたいと思っています。
改めて思ったのですが、やっぱりクラシックは管球式のアンプでタンノイのスピーカーを鳴らして聴くのが個人的には理想ですね。暖かで柔らかなその音色はきっとこの演奏をもっとふくよかに響かせさらなる感銘を与えてくれるに違いない。
なんてことを書きながら、なんとなく最近スノッブな語りになっているなあと感じるのです。それは自覚しているのです。ただ、どうしてそうなるのかがわからない。もしかしたら、自発的にある種のフィルターをかけて書いているせいかもしれません。
自主規制しすぎると「心ここにあらず」という状態になってきてしまうみたいで、これはいけない。かといって傲慢無礼にとられるような文体や調子になってしまってもいけないし。技術的な問題を別としてもまずは人間を磨かないといけないのでしょう。僕のような未熟者はひとの何倍もその点では努力しないといけないのだといまさらながら反省しています。
ここまで書いたところで雨音に気づきました。天気予報では午前0時過ぎから雨のマークになっていたので油断していました。明日すぐにクルマを使えるように車体カバーを外しておかなければならないのでした。ようやくカバーを収納した頃から急激に本降りになりました。しばらく雨が降っていなかったので、サイクルから考えると予報どおり明日、明後日は雨がちになるのでしょう。
昨日から落葉が本格的に始まって、処理しても処理してもあっという間にもと通りの「落ち葉の絨緞」に戻ってしまいます。雪かきと同じです。これも「行(ぎょう)」だと考えて淡々と行うほか無いです。当地では落ち葉の量が半端ではないので、竹箒なんかではらちがあきません。牧場で干し草を移動する時みたいに大きな熊手でかき集めては大きな段ボール箱に詰め込んで腐葉土が必要な場所に移動します。
この時期は一日で軽トラック3台分ほどの落ち葉を処分しなければならないのでけっこう重労働です。雪の場合と同じでまさに「落ち葉との闘い」です。個人的には落ち葉の絨緞を踏みしめて歩くときの感触が好きなので、あんまりきれいさっぱりと処分してしまうのももったいない気もするのですが、みなさんはいかがでしょうか。
紅葉はペンション・サンセットの標高ではこれで終わりますが、ほんの50mほど標高が低いところではちょうど最盛期になっています。そんなふうに紅葉は山を下って里へと向かうのです。ですから標高1200m付近の蓼科湖では10月末頃が紅葉の最盛期になります。そんなふうに蓼科の紅葉は10月上旬の山岳部から始まり11月上旬の湖沼部へと1か月以上かけて下っていくのです。ということですから、まだまだ、高原の紅葉を楽しむことができます。
晴れ 気温:最低 3℃/最高 11℃
「ひとの話しぜんぜん聞いてないし〜」というのはやはり現代の潮流のようだ。昔と違うのは決して悪意はないということか。それは情報過多時代にあって情報処理能力に限界のある人間の頭脳を守るためのブレーカーあるいはフィルターみたいなものなのだと思う。
ほとんどの情報をいわば「ノイズ」として「流し」ていながら、ふと必要な情報に気づけばそれを吟味して摂取するという様子なのだ。現代の高度情報化社会にあって頭脳を健全に守るためにはそのような機制もまた必要なのかと思う。TV、インターネット、ゲーム、CMを始めとしてこれでもかこれでもかと情報が流し込まれるのだからそれをすべて真に受けていたらたまらないだろう。
だからといって、本来精神の滋養となる読書や音楽鑑賞、映画鑑賞などの学芸の分野まで無差別にフィルタリングされてしまっているのはいかがなものかと危機感をつのらせている。そんな感性の殺戮とも言える状況があり、その一方でそれらに(時間的に)とってかわっているのはまぎれもなく「ケータイ」だ。
不思議なのはケータイ以前と以後の時代を比較してひととひととのコミュニケーションがより深まっているかというと、決してそんなことはないという事実だ。伝えたいこと、伝えたい想いを伝える困難は同様に存在するのだ。ケータイによってかえって手続きが面倒に遠回りしている感すらある。
人々はお互いが「繋がっている」ことの確認のために、ケータイメールを打ち合っているようにさえ見える。それは「群をはぐれたくないという不安」によって動機付けられているにちがいない。個人的にはあまり健全だとは思えないのだけれど、まあそれ自体が「娯楽」といえなくもないし、どうこう言う立場にもないから「良いんじゃないっすか」なんて言ってしまうのだけれど。
僕のようなケータイ以前に生きる「古代人」からみると、それにしても膨大な時間の浪費のようにも思われるのだけど。シンプルにストレートに生きることのできない時代になったのかも知れない。山間部ではライフラインとしての意味もあってケータイは都市部以上に普及しているのだけれど、基本的には同様の使い方がされている。
ケータイ以降飛躍的にコミュニケーションが容易になったことは実際問題として革命的だった。しかし、それが定着して以降、都市部と同じ使い方がそれに加わった。結果として、のどかな山暮らしにしてはなにやらとても忙しくなった。昔のように用件のみのメールではない「メル友」メールのトラフィックが増大したのだ。
場所を選ばず、ケータイ以降(これは象徴的な意味でということだけど)みんなとてもとても多忙になった。本を読んでじっくり想いを巡らせたり考えたりすることも少なくなり、フェース・トゥ・フェースでの会話もストレートではなくなった。ケータイやメールの方が話しやすくなっていたりしてね。
これは喜ぶべきことなのだろうか、悲しむべきこと、憂慮すべきことなのだろうか。
時代の流れといってしまえば受け入れるほか無いのだけれど、ケータイが小・中・高生の世代に大人の目の届かない絶対的無法地帯を提供してしまったことは(たとえば映画《リリーシュシュのすべて》を見るとそのことがリアルにうかがえるけど)紛れもない負の側面だ。
マスコミが大好きな「心の闇」とやらはそのような暗黒の無法地帯で密やかに肥大化している。そのような世界においては「人間」らしいまともな人間は生まれないし、育たない。文字通りの「人でなし」が大手を振ってまかり通る世界がある。ゲームによって培われる病んだ思考形態については別の議論に譲るが、ケータイとゲームの現状を僕は認めない。それが「人間」を壊す機構となっているからだ。
ケータイとゲームとそしてもしかしたらインターネットとによって、ひとびとは、特に子供たちと若者は「リアリティー」を喪失している。リアリティーとは「いま、ここに、ある」という絶対的な認識のことだ。自分が自分であるという確信のことだ。本当の自分を生きる唯一の手がかりのことだ。
その大切なものがいま失われ続けている。
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