晴れ 気温:最低 3℃/最高 11℃
山暮らしはいつも命がけの危険と隣り合わせの力仕事、というか「闘い」です。周囲のひとはそんなことは当たり前で何とも感じていない、とういか、言うまでもないから何も言わずに淡々と作業なさっているようですが、肉体労働未経験の都会育ちのビジネスマンだった僕は、とても「ひ弱」で、いつもびくびくしながら作業しています。(^_^;)
そう、僕はこの地に暮らすようになって知った。自分の弱さを、それも自分の本当の弱さがどのようなものなのかを。それを知ったからといって、急に何かが変わるわけでもないし、好転させる方法が見えてくるわけでもない。でも、知らないよりは知っていた方がいいと思っている。
強くなりたいと想っても、そして実際に強くなろうとしても、それで強くなれることは先ずあり得ない。それは経験的事実だ。でも。強さってなんだろうと考えたとき、それが「耐える強さ」だってことに気づいた。何に耐える強さかというと、「自分が自分であること」に耐える強さだ。
「自分らしく生きる」というのはそういうことなんだ、シンプルに言ってしまえば。
ひとは互いに相手を自分の価値観なり世界観に従わせようとしながら生きている。「組織」とか「地域」とか「仲間」とか、それはあらゆるレベルにおいて自然な原理として存在する。それから逃れて生きていくことはほとんど不可能だ。
そこで、選択肢はおおまかにふたつ。(1)自分を捨てて相手に合わせる、(2)自分の生き方を通す。
前者を選択するのが常識的選択かも知れない。が、後者への欲求はしだいに増すのどの渇きにも似てわれわれを苦しめることとなる。「自分は一体何者なのだ?」という問いかけとなって我々の魂をゆさぶり不安にする。
「自分を捨てて」というのはじつに巧妙なレトリックであって、これは強者が弱者を従わせ支配するときの美しく甘美な常套句である。「もっと馬鹿になれ!」という言葉も本質的には同じものだ。その証拠を示すのはじつに簡単だ。強者、支配者が「自分を捨てて相手に従う」のを見たことがあるだろうか、それは強者の敗北に他ならない。それを行えば彼はもはや支配者ではなく被支配者である。
「もっと馬鹿になる」ような支配者はいない、それではもはや支配者ではいられないからだ。百歩譲って別の意味において比喩として「もっと馬鹿になる」ことが有用なケースはあるかも知れない。が、それは人に言われたり命じられたりする筋合いのものではない。自分で考え自分で決めることだ。それこそよけいなお世話というものだろう。
「人の和」を説く人間は「秀でた(ひいでた)」強い影響力・支配力を持った人間ばかりではないだろうか。「和をもって尊しと為す(わをもってとうとしとなす)」と説いたのは聖徳太子だが、この言葉は絶対的支配者である聖徳太子が説いたからこそ意味を成すのであって、名も無き民が発しても実際的にはほとんど意味を成さない言葉だったろう。
もっとも、この言葉はかなり誤った用法で用いられているケースが多いようだけれど。興味のある方はウェブ上で検索しても良いし、辞書を引くなりして調べてみるのも興味深いかも知れない。
「小異を捨てて大同につく(しょういをすててだいどうにつく)」も同様に(意図的に)誤った使い方をされていることが多い。ここで言う「小異」こそ「個人の尊厳や固有の権利」であり「本当の自分」であることが多いのだ。意見や見解の小さな違いを捨てて大局的合意をするという本来の意味とは異なった使い方をする支配者。「大同小異」、危険な言葉だ。
さて、僕はといえば、ばりばりの「組織人」として自分を訓練し、組織人として前半生を生きた。そして自己崩壊寸前までいってしまった、少なくとも内面的には。要はバランス感覚が悪かったということなのだけれど。簡単に言ってしまえば、「本音(本当の自分の生き方)」と「たてまえ(自分を捨てて所属集団の価値観に則って生きる)」の使い分けがうまくなかったってこと。
だから、ここへやって来たのは、「本当の自分の生き方」を実現する、実際的には「実践する」、ということだったのです。しかし実際のところそれはどこにいたって「ハードボイルド」な生き方です。向かい風の人生ですね。場合によっては村八分的人間関係の危機をはらんだスタンスです。だから「快適で安楽で楽しい人生」を求めているわけではない。つらくて孤独な闘いの後半生を選択したのかも知れない。
でもその選択以降の僕こそ本来の「自分らしい自分」だと胸を張って言えるし、そんな自分がうれしい。
そんな僕にたいして反感を持つ人間もいるだろうしそうでない人たちもいると思う。それが自然なことだ。敵もいれば味方もいる、さらに敵か味方かが曖昧な人たちも圧倒的多数存在する。それが自然な姿だし、その曖昧さに耐えることこそ自分を強くする唯一の成長過程だとも思っている。
だから本当は僕は孤独ではないのかも知れない。それは単なる「孤独感」にすぎないのかもしれない、誰もが時として感じる。そのような孤独感を持たないひとはおそらく自分が「共同幻想」の世界に生きていることに気づいていないのだ。しかし、誰の人生においてもその事実が暴かれる日はやがてやってくる、確実に。まあいいか、ゲーテがファウストに言わせたように、しょせん「万物はメタファー」なのだから。
(注)実はこの文章は2004年6月某日に書いた日記の一部だ。思うところあって転載する。
晴れ 気温:最低 3℃/最高 9℃
今日は快晴だった。明日も晴れ、明後日も晴れという天気予報がでている。晴れた夜はとても冷え込むから、また晴れた日中でも陽射しは暖かいけれど風がとあるととても寒く感じるから、秋の高原を訪れるならそれなりの服装計画が必須となります。
おすすめなのは、薄手でもいいからアンダーウエアを長袖のものにすること、できればパンツの下にはく中厚手のタイツを準備。羽織るものとしては長袖の厚手のシャツ、厚手のトレーナー、中厚手のフリース、それから風が吹いた時に寒い思いをしないために、風を通さないナイロンのウインドブレーカーかマウンテンパーカがあれば完璧。
寒がりのひとはこれに加えて毛糸の帽子、啓人の手袋があればなおいいでしょう。
そしてこちらに到着したら是非秋の高原の「森」を散歩して下さい。早朝か、夕暮れ時がおすすめです。湖畔の森だったらいっそうロマンティックでしょう。そう、秋の高原はロマンにあふれているのです。
台風なんてとっくに消失しているのに、良く風が吹きます。今日の蓼科も強風というほどでは無いけれど、冷たい風がコンスタントに吹きました。朝夕はときおり吹き抜けるこの風がとても寒く感じさせます。しかし、この冷え込みによって紅葉はずんずん進行しています。
この連休は標高2400m〜2000m付近がなんとも美しかった。国道299号線ドライブしたお客様や、麦草峠・白駒池を訪れたお客様、そして山歩き・登山でロープウエイから山にはいったお客様はこの至福の風景を堪能されました。
今週末にはロープウエイ下から標高1750mのピラタスの丘付近まで紅葉が降りてきそうです。今度の土日にはペンション・サンセットも紅葉のタペストリーの中に織り込まれてしまいそうです。紅葉は標高の高いところから低いところへと山を駆け降りるものですから、標高差の大きい蓼科では11月半ばまで広葉樹の紅葉が楽しめます。特に蓼科湖では400本の桜の木(ソメイヨシノ)が真っ赤に紅葉します!
それが終わるといよいよ針葉樹の紅葉です。落葉松(からまつ)の紅葉の美しさはそれを知るものにとっては忘れ難いものです。東山魁夷画伯も好んで当地の落葉松林を取材していたそうで、画伯の描いたブルーの美しい針葉樹林は当地の風景もはいっているのだと改めて親近感を感じます。
今夜もお客様のために全館暖房を入れています。暖房を入れないと館内は15℃〜18℃ほどになってしまう気候です。これは平年に比べるとかなり寒いです。いつものこの時期ならもっとずうっと温かなのです。数日中に平年並の気温に戻るとは思いますが、いずれにしても、都市部からいらしたお客様には「ものすごく寒い」と感じられるかも知れません。
そういうことなので、上記の服装を是非ご用意下さい。そうすれば極上の高原の秋を快適にお過ごしいただけると思います。あ、これは朝夕のことで、日中は陽射しがぽかぽかと暖かいですからそのあたりのご心配は無きよう。別の表現をするなら、山にキャンプに行く時程度の防寒衣料は必ずご用意下さいということです。ここは日本中のどのキャンプ場より標高が高いのですから。
今夜は満天の星が美しい。今日はジャコビニ流星群が出現する日なのですが、なにしろ「突発的に出現する流星群」だそうで、残念ながら僕はまだ見ていません。もう一度ラウンジの窓から夜空を見上げてみようっと。
雨 気温:最低 8℃/最高 10℃
台風16号はすでに熱帯低気圧に変わり、天気概況によれば日本近海には現在「台風」はひとつも存在しないとのこと。しかし秋雨前線の活動が活発なため広範囲にわたって強い風雨に見舞われているている現状だ。ここ蓼科でも昨夜半以来しだいに風雨が強くなり、春の嵐のような状況になっている。降雨はさほどでも無いが、風は強い。ピラタスロープウエイは法令に従って今日は終日運休となった。
明日は午前中で雨が上がって、それ以降は上り坂となり土曜日は曇り、日曜日は曇り後晴れ、月曜日は晴れという予報になっている。この3連休は8日(日)以降に観光を予定するとよろしいかと思う。ピラタスの丘は今日も気温が上がらず、最低気温8℃、最高気温10℃と、東京の12月と同じ気温となった。
蓼科を訪れる方は冬用のフリースやダウンパーカを絶対に忘れないこと。いちばんいいのは薄いものでもいいから長袖長ズボンのアンダーウエア(下着)を1枚着用すること。そうすればまったく寒さなど感じないで思いっきり高原の秋を満喫できると言うものだ。だまされたと思って是非お試しあれ。
ピラタスの丘も劇的に色づいてきている。紅葉は思っていたよりも早く最盛期を迎えるかも知れない。まあ順当な線としては来週末がペンション・サンセットの周辺の紅葉の見ごろとなると思う。現在すでにロープウエイで上がる2000m以上のところは紅葉真っ盛りだ。1750mにあるペンション・サンセットのところまで紅葉が降りてくるのも時間の問題だ。
最近ペンション・サンセットの敷地内を野生の鹿が通り抜けていることが判明したので、終夜屋外の照明を必要最小限点灯することにしている。敷地内の植物や樹木に食害を出さないためだ。それほど鹿の出現確率が高いので、野生との出会いを求めるひとにとって、ピラタスの丘はまたひとつ魅力を増したのかも知れない。
また、都市生活者にとっては「闇」は恐ろしいもの以外の何ものでも無いようなので、夜間窓の外に多少の光があることは安心につながるのかな、とも思っている。そのあたりはお客様のご意見を聞きながら考えていきたいと思っている。ここはとんでもない山岳部だから、またペンションがたくさん建っている別荘地だから治安はとても良く、これまで事件らしきものは皆無だけれど、まあそんなことで、試しに夜間照明を実施しているしだい。
蓼科はすでに紅葉シーズンにはいっているので、これから11月上旬いっぱいはいついらしても紅葉をめでることができると思います。今年の紅葉はしなやかで虫食いも無く色味も鮮やか、ここ数年の中でも格別に美しいので是非ご覧いただきたいのです。
曇りのち雨 気温:最低 8℃/最高 13℃
朝のうち曇り空だったが、昼前には雨が降り出した。土砂降りでは無いが始めから本降りになった。高原の雨はきれいだから、雨が降るほどに屋外駐車してあるクルマがきれいになっていく。ペンション・サンセットの敷地内のアプローチの砂利道や駐車場に降り積もった紅葉を打つ雨音、樹木の葉を打つ雨音がぱたぱたさわさわと聞こえる。
この季節の雨はそのように清冽な印象がする。雨の日の午後を過ごしながら「なんだかすごく静かね。」と妻が言う。そうなのだ、雪降る夜の次に静かなのだ。特にこの季節の雨降りの午後は、何もかもが眠り込んでしまったような静寂に満ちている。森に降る雨はそもそも静かなものなのだけれど。
中庭の犬舎のなかでシベリアンハスキーのパルが熟睡している。夜中は最近特に野生の鹿が徘徊しているので、おちおち眠っていられないから、明るいうちに安心してゆっくり眠っている。風も無く、樹木も揺れない、雨はまるで定規で引いたようにまっすぐな軌跡を残しながら空から地表へと降り続けている。
まるで時間が止まってしまったような錯覚に陥る。どこからともなく、いや、僕の頭の中からか耳の奥からかきーんという音が聞こえてくる。自分の呼吸する音がはっきりと聞こえる。二重ガラスの向こうの景色は一幅の絵画のように色鮮やかで癒しに満ちている。
その一方でこの景色はどこか心うきうきするものを感じさせる。わくわくしてくる。紅葉が始まる時にはいつもこの気分が支配するようになっていく。秋に収穫されるのは田畑の作物だけでは無く、景色もまた収穫の季節を迎えるのだ。雨が降っていても空は明るく、景色はくっきりとしている。
Power Mac G5 のたてるぶーんという音、僕がキーボードをたたく音以外なにも聞こえない。夜になってピラタスの森はますます静かだ。自分がいま覚醒しているのか眠っているのかも定かでなくなるほどに。
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