曇りのち晴れ 気温:最低 14℃/最高 20℃
カシオのデジカメ「EXILIM」のCMに登場する女性に心魅かれる。空中回廊のようなレッドカーペットの上をファッションショーのようにウォーキングしてきてポーズを決めた時のある種不敵な微笑みになぜか強く心を動かされる。そのウォーキングする姿がまた美しい。
まったく知らない女性なのでファッションモデルだろうと勝手に思い込んでいたが、今日調べてみたらなんと昨年退団したばかりの宝塚歌劇団月組の男役トップスター、彩輝 直(あやき なお)と言う女性だった。どうりで別格のオーラを放っていたわけだ。
身長170センチのその容姿は男役だったとは信じられないほどたおやかで美しいオーラをはなっている。スターと言うものはやはり神に選ばれしものなのかも知れない。女優、彩輝 直がこのCMの魅力を引き出し、このCMの上質なクリエイティヴが彼女の魅力を最大限引き出したのだ。
カシオのウェブサイトにこのCMのメイキングオブがムーヴィーにしてアップされていた。それを見て僕はぞくぞくした、いや《血が騒いだ》と言った方がいいかも知れない。僕がその昔身を置いていた世界がそこにあったからだ。僕はあの世界を逃げ出すべきでは無かったのかも知れないと、ふと思った。
しかし僕は知ってしまったのだ。自分にはそこそこの才能しかないということを。そこそこの才能があるよりも、まったく才能がないほうがある意味では幸福なのだ。地獄よりも煉獄の方が堪え難いものなのだ。しかし才能のある人はあるひとで、その人なりの地獄を抱えながら自分の才能に突き動かされるようにして生きる他無い。そのこともまた僕は知ってしまった。
だから、やはり、いまの僕の方がかつての僕よりも幸せだと感じている。ここが僕の居場所だと心の底から思えるからだ。僕はここにいて、蓼科高原日記と言うクロニクルを毎日こつこつと書き続けることが分相応だと思う。また、それなりに幸福感も感じている。幸福感とは自分が自分であることを実感するということだからだ。
僕はいまここにいて、限りなく自分自身である。
曇り 気温:最低 14℃/最高 19℃
実際の観測気温よりも、体感気温は高めの一日だった。これは湿度などの気象的要因によるものなのか、身体が秋めいた気候になじんだためなのかわからない。いずれにしても、日中は暑くは感じず、夜は以前より暖かく感じる。蓼科の山岳部では、森のそこここで赤いもの(紅葉)が見られるようになってきている。
さて、理屈っぽいことばかり書いていると嫌われるので(と言うのは嘘です)、違うことを書こうとするのだけれど、なかなか《無難な》話題がない。ブログみたいに社会的事件にコメントする形式ならかなり楽なのだけれど、それをやるつもりはあまりない。あれはあれで、トラックバックやら何やらがくるので大変気を使う作業なのでは無いかと思う。
あ、そうそう、愛犬のシベリアンハスキーのパル君が今日獣医さんでお尻にできた腫瘍の切除手術を受けた。とても健康で予防注射以外で獣医さんのお世話になったことなど無かったので、麻酔をする段になって彼はじたばたと抵抗して大変な騒ぎになった。身体が大きくて精悍な風貌のわりに子犬みたいな態度なので周囲のひとにしっかりと笑われた。まあ、それがパル君らしいところなのだけれど。
麻酔をかけるまで男性3人がかりで抑えて点滴用の針を刺したりして手術の準備を完了した。彼にしてみればそれはそれは恐ろしい体験だったに違いないが、手術をしないでほうっておくと大変なことになるのだから恨まれたとしても僕としてはしょうがないと思っている。おかげで、帰ってきてからどっと疲れが出て(何しろパル君がものすごい力で抵抗するものだから)、小一時間寝込んでしまった。
文字通り《家族》が手術を受けたわけだから、精神的にものすごく緊張状態にあったのがほっとしてとけたために急激に眠くなったのかも知れないとあとで思った。パル君のわが家における存在の大きさを改めて認識したしだい。もはや彼のいないわが家など考えられないのだ。
病理検査の結果待ちだけれど、おそらくは良性腫瘍とのことなので少し安心した。手術は問題なく終わり、お尻に長い縫合の跡が残った。麻酔から覚めたあと数時間は心ここにあらずと言った様子だったが、夜半には正気に戻っていつも通りのパル君になった。それでも僕が近づくと無理やり変なところにつれていかれてひどいことをされたとでも思っているのか、僕に対して警戒心を持っているのが感じられてちょっと寂しかった。
いまパル君は自分の犬舎にはいって、すやすやと眠っている。
これが今日のわが家のいちばん大きな出来事だった。
曇りのち雨 気温:最低 13℃/最高 19℃
1996年7月1日の開設当初から、このホームページは僕の署名入りのウェブサイトとして運営されてきた。何かを語る以上、たとえば新聞の署名記事のように、誰がそう言っているのかという責任の所在をはっきりさせる必要があると信じたからだ。
もちろんのそのために自身のプライバシー保護に問題が生じる可能性はある。大変危険なことでもある。が、それはウェブ上で情報発信する以上負わなければならないリスクだと僕は考えている。そもそもペンションガイドブックにはかなり詳しくオーナーの個人情報が公開されている。ペンションとはそもそもそのような業態なのだ。
そこがほかの宿泊施設と決定的に異なるところだ。ペンションは特定の個人がその個人的責任において経営している宿泊施設なのだ。組織では無く資本でも無く「個人」が全責任を負って運営されているのがペンションという「宿」なのだ。
だから、匿名あるいはハンドルネームでペンションのホームページを公開することは僕にはできない。個人が公開する趣味のホームページとは決定的に異なるものだからだ。お客様にはその違いなどどうでも良いのかも知れないけれど、僕はそうでは無いと考えている。匿名による暴力が頻発する世の中にあって、僕はぜんぜんトレンディーじゃないのだ。
しかし蔓延する匿名性によって現代社会が犯罪の温床になってゆくのを苦々しく思っているのは僕だけでは無いと思う。匿名性とは自分が自分であることに責任を持たないということだ。自分が行うこと行ったことに対して責任をとらずに頬被り(ほおかむり)して隠れることだ。
それは「プライバシーの保護」という概念とはまったく異なる行為だ。そのことがわかっていないひとが多すぎると感じている。だからペンション・サンセットではいっさいの匿名およびハンドルネーム(ニックネーム)を認めない。
旅館業法でも宿泊者は正しく自身の氏名、住所等の事実を宿帳(宿泊者名簿、宿泊カード)に記帳することが義務づけられており、偽名等を記す行為は厳しく禁じられている。
このような主張をすると「なにを固いこと言っているんだ」とか「ずいぶん厳しいのね」と言って敬遠するひともいるが、これが本来守られてきた社会的同意事項だし、それはいまもなんら変わっていない。我が国は先進国家であり、歴史ある法治国家なのだ。
匿名性と言うのは無責任と同義である。匿名性を利用すると言うことは、自分は安全なところに身を置いて、ひとをおとしめたり攻撃したり傷つけたりする行為を行うと言うことだ。たとえば匿名性の突出した例としてはテロリズムがある。テロリズムの恐怖はその匿名性に本質があるのではなかったか。テロが蔓延するのは匿名性を甘やかす現代社会そのものにあるような気がしている。
少年犯罪の増加も現行少年法の本質である「匿名による犯罪」と言う少年犯罪の取り扱いにその本質的原因があると考えるものだ。少年法はもはや「少年保護・更生」のための法律ではなく「少年犯罪の保護」のための法律におとしめられているように感じる。少年でさえあれば「匿名性」を担保され、罪を問われず、大人のような罰も受けず、ただ見せかけの「反省」と見せかけの「更生」だけで済んでしまうのだ。これを「犯罪特権」と呼ばずになんと呼んだらいいのだろう。
いずれにしても匿名によるやり取りには真実も責任も信義も無い。諜報機関やスパイ同士の交渉では無いのだ。匿名でなければ成立しないようなコミュニケーションや契約行為などそもそもの始めから行うべきでは無いし、存在そのものが犯罪の温床となる要素を内包している。
匿名社会こそ、プライバシーの保護と言う名のもとに、犯罪性という危険な誘惑に満ちた社会を形成しているのではないか。いま立ち止まって考える必要がある。
曇りのち雨 気温:最低 11℃/最高 17℃
先日僕は『蓼科高原日記は、じつは日記風の「小説もどき」だったのだとお考えいただくとわかりやすいかも知れない。』と書いた。がっかりしたひともいるかも知れないし、裏切られたような気持ちになったひともいるかも知れない。
僕がそのように書いたことは真実だ。しかし、「真実」は一義的だが「事実」は多義的に、つまり、多様にその姿を現すものだ。この日記は事実を記している。しかしその事実はそれぞれの出来事のほんの一面に過ぎない。それが僕のような「物書き」では無い素人の文章の限界だ。
実はかつてあるお客様から「蓼科高原日記を小説のように読んでいる」と言われたことがある。そうなんだ、とそのとき僕は思った。これは書かれたとたんにフィクション(少なくとも通常の個人の日記とは異なったもの)になるのだ、と。なぜなら、先日も書いた通り、僕はある「スタイル」にしたがって日記を書いているからだ。
それは公開を前提とした日記を成立させる諸条件を満たしたガイドラインとしての「スタイル」であり、この中に登場する「僕」をぶれの少ない語り手として保持するための「スタイル」と言ってもいい。たとえば自分がペンションのオーナーであるということを大前提としてつねにお客様としての読者を意識しなければならない。
またウェブで公開する以上、公序良俗に反した記述は避けなければならない。登場する企業や組織や個人のプライバシー保護にも配慮しなければならない。観光地としての蓼科高原の不利益となるような誤った情報を伝える間違いを犯さないように慎重でなければならない。
たとえばそのようにさまざまな制約の中で僕はこの日記を書いている。「蓼科高原日記」に何らかの価値があるとするなら、「語り口」としての「このスタイル」だと(個人的には)考えている。書かれている内容にかかわりなくいつも変わることの無いこのスタイルこそが「僕」なのだ。
ペンション・サンセットがほかのペンションと決定的に異なるところ(あるいは特徴といってもいい)があるとすれば、ペンションにおいてもこのスタイルが生きているということだ。ペンションは僕の「スタイルの表現」なのだ。単なるハード、ソフトの統合体としての宿泊施設では無い。
僕のペンションになんらかの特徴的な「雰囲気」や「心地よさ」があるとするならば、僕らが「表現としてのペンション」を強く意識しているからかも知れない。ペンションは僕にとって「商売」というよりは「表現」なのだ。何かを演じているつもりは無いけれど、素(す)の自分がお客様を前にして「この場所のほんとうの心地よさ」へとご案内するということを意識している。
MC(マスター・オブ・セレモニー)として僕はペンション・サンセットという舞台に立っているのだ。僭越かも知れないけれど、僕はそう認識している。そうした意味においても、ここでの出会いは一期一会だ。
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