晴れ 気温:最低 + 1℃/最高 + 13℃
承前
昨日の日記より続く。
僕の妻は「クール」なのだ。「冷たいひと」というわけではもちろんないのだけれど。だから、昨日の文章が「まわりくどいラブレター」だということにも金輪際気がつかないだろう、たぶん。
世の殿方よ、奥さんにラブレターを書こうじゃないか。すくなくとも、熟年といわれる年頃になったら、いま一度ラブレターを書こうよ。それでも「熟年離婚」されちゃうかも知れないけれど、想いはきちんと伝えなくっちゃ。言葉にしなければ届かない想いというものが信じられないほどたくさんこの世界にはあるのだ、と僕は思っている。
これは個人的な実感だ。
抵抗のある人はこう考えてみたらどうだろうか。ビジネスで必要なセールストーク、それは女性を口説くのに似ている。そして、セールスレターはまさにラブレターそのものではないか、ってね。自分の奥さんを口説けなくて、お得意様が口説けるかって。しかも見込み客相手に「まわりくどいラブレター」じゃあ話しにならないから気合いも入るというものだ。じゃない?
これはセールストークが苦手な僕自身の実感なのだ。
それは僕がまず心を通わすことしか考えないからかも知れない。相手を本当に好きになることから始めるからかも知れない。それができてから僕を好きになって欲しいと願うからかも知れない。それも誤解無くあるがままのぼくを幻想を抱かずに好きになって欲しいと願うからかも知れない。
これじゃあ相手に対する要求水準が高すぎるよね。それはわかっているのだけれど、僕はそういう風にしかひとと心を通わすことができないようなのだ。これは人間としての「仕様」の違いとでもいったものなのかも知れない。
そんな自分を受け入れて生きていくしかないのだろう。
☆☆☆
それはそうと、今日は急に冷え込んだ。とはいえずっと以前のように氷点下にはならない。やはり地球は確実に温暖化しているようだ。日中は陽射しがとても強くて日なたでは25℃近くなるが、それは太陽熱がそうなのであって、実際の大気の気温は(要するに風の温度は)最高で13℃だった。
だから、日なたで汗ばんだら上着を脱ぎ、活動休止時や木陰に入ったらすぐに上着を着込むというこまめな調整が必須の季節なのだ。それを怠ると思わぬ風邪を引いてしまったりするので要注意。今年のGWは特に寒暖差が大きそうなので、くれぐれもご注意いただければさいわいです。
標高の低い地域からどんどん桜が咲いていますが、蓼科の桜はすっかり見頃のものもあれば、まだ蕾のものもあります。本命の蓼科湖畔の聖光寺(しょうこうじ)の千本桜(実際は450本といわれているが1000本に感じられるゴージャス感は事実)はようやくつぼみが開きだしたところです。
蓼科高原桜祭りの太鼓のパフォーマンスや無料振る舞いのイベントは5月5日〜5月6日に催されることが決まりました。ということは、5月5日のご宿泊がベストということです。道路情報によると、高速道路の復路(上り)の渋滞のピークは5月5日だそうなので、5日に宿泊して6日に帰宅するのが正解のようですよ。(^^)
桜の花咲く美しい蓼科で、みなさまのお越しを楽しみにお待ちしております。
晴れ 気温:最低 - 2℃/最高 + 14℃
ブログが一般的になり、たくさんのひとがブログを公開するようになった。以前にも書いたとおり、とりわけ我が国のブログの繁栄は異様なほどの勢いだという。しかしその内容の多く、というか、ほとんどは日記だとも言う。その傾向は日本人の持つ日記文化とでも言うべきものの反映といわれる。「確かにぃー!」と思わず納得してしまう。もし日記でなかったら、僕も蓼科高原日記を11年以上毎日書き続けるなんてことはできなかっただろうから。
欧米流に、ジャーナリスティックな内容あるいは専門的内容でブログを運営しようとするならば、きわめて高度な時代感覚と正確な事実認識そして専門的知識が必要となる。自分の知的リソースを総動員し、なおかつ、高度なバランス感覚をもってブログを綴らなければならない。そのエネルギーはいかほどのものだろうか。軟弱な僕にはちょっと無理っぽい。
ということで日記執筆公開者として自分を定義するなら、ウェブベースの頃の方が気が楽だったし自由だったような気がする。現在のブログ公開システムは基本的にデータベースによるCMS(コンテンツ・マネジメント・システム)になっているから、情報の集積としての日記の管理には絶大な力を発揮する。しかしその一方で、現代的な「ブログ」として衆目に晒されるという点ではあまり居心地のよいものではなくなっている。
もちろん、一般に公開する以上その内容や視点が極端に偏っていたり、社会規範や倫理に著しく反するものであってはならないのは当然で、それはウェブベースの日記でも同様だと思う。しかし独自の観点や立場や主張を展開するウェブページ(ホームページ)と一体のものとして公開される場合と、システム上「ブログ」としてウェブページと切り離され独立したコンテンツとして公開される場合とでは、大きくそのニュアンスが異なってくる。いわば「文脈を失った発言が一人歩きする」ような場合が多くなる。そこが痛いところだし、書くこと語ることに恐怖に近い緊張感を持つことになる要因だったりする。
じつはいまでも蓼科高原日記はウェブ版と並行して書き続けられている。見栄えは「ブログ版」の方が断然良いし、情報管理も容易なのだけれど、読み手に回ったときにはなぜか「ウェブ版」のほうがほっとするのだ。親しい友人の家を訪問してその居間でくつろいでいるようなリラックスした気分になれる。ブログではなにやら公共の場で語っているような、ある種の緊張感が残る。これは僕だけの特殊な感覚なのかも知れないけれど。
別の表現を工夫するなら、仮借のない世間の目にさらされているようなオフィシャルな感覚、かな。
それは良いことなのだろうか。
良いことなのだろう、たぶん。
しかしプロフェッショナルとしての訓練を受けたことのない素人にとって、そのハードルはとてつもなく高いように思われる。なんだか書くこと、語ることがとても怖くなってくるけれど、語りながら学んでいくしかないのだとも思う。
☆☆☆
さて、ピラタスの丘では毎朝未明から野鳥の歌声が美しくも賑やかに聞かれるようになってきました。ウグイスもずいぶん数が増えたし、他の野鳥も半数以上は頭数がそろったように思われます。GWまでにはこの季節にやってくる野鳥がほぼ勢揃いするはずです。
高原で迎える朝、さわやかな空気の中、野鳥の妙なる歌声にまどろむのはたとえようもない幸福です。
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