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ブログが一般的になり、たくさんのひとがブログを公開するようになった。以前にも書いたとおり、とりわけ我が国のブログの繁栄は異様なほどの勢いだという。しかしその内容の多く、というか、ほとんどは日記だとも言う。その傾向は日本人の持つ日記文化とでも言うべきものの反映といわれる。「確かにぃー!」と思わず納得してしまう。もし日記でなかったら、僕も蓼科高原日記を11年以上毎日書き続けるなんてことはできなかっただろうから。
欧米流に、ジャーナリスティックな内容あるいは専門的内容でブログを運営しようとするならば、きわめて高度な時代感覚と正確な事実認識そして専門的知識が必要となる。自分の知的リソースを総動員し、なおかつ、高度なバランス感覚をもってブログを綴らなければならない。そのエネルギーはいかほどのものだろうか。軟弱な僕にはちょっと無理っぽい。
ということで日記執筆公開者として自分を定義するなら、ウェブベースの頃の方が気が楽だったし自由だったような気がする。現在のブログ公開システムは基本的にデータベースによるCMS(コンテンツ・マネジメント・システム)になっているから、情報の集積としての日記の管理には絶大な力を発揮する。しかしその一方で、現代的な「ブログ」として衆目に晒されるという点ではあまり居心地のよいものではなくなっている。
もちろん、一般に公開する以上その内容や視点が極端に偏っていたり、社会規範や倫理に著しく反するものであってはならないのは当然で、それはウェブベースの日記でも同様だと思う。しかし独自の観点や立場や主張を展開するウェブページ(ホームページ)と一体のものとして公開される場合と、システム上「ブログ」としてウェブページと切り離され独立したコンテンツとして公開される場合とでは、大きくそのニュアンスが異なってくる。いわば「文脈を失った発言が一人歩きする」ような場合が多くなる。そこが痛いところだし、書くこと語ることに恐怖に近い緊張感を持つことになる要因だったりする。
じつはいまでも蓼科高原日記はウェブ版と並行して書き続けられている。見栄えは「ブログ版」の方が断然良いし、情報管理も容易なのだけれど、読み手に回ったときにはなぜか「ウェブ版」のほうがほっとするのだ。親しい友人の家を訪問してその居間でくつろいでいるようなリラックスした気分になれる。ブログではなにやら公共の場で語っているような、ある種の緊張感が残る。これは僕だけの特殊な感覚なのかも知れないけれど。
別の表現を工夫するなら、仮借のない世間の目にさらされているようなオフィシャルな感覚、かな。
それは良いことなのだろうか。
良いことなのだろう、たぶん。
しかしプロフェッショナルとしての訓練を受けたことのない素人にとって、そのハードルはとてつもなく高いように思われる。なんだか書くこと、語ることがとても怖くなってくるけれど、語りながら学んでいくしかないのだとも思う。
☆☆☆
さて、ピラタスの丘では毎朝未明から野鳥の歌声が美しくも賑やかに聞かれるようになってきました。ウグイスもずいぶん数が増えたし、他の野鳥も半数以上は頭数がそろったように思われます。GWまでにはこの季節にやってくる野鳥がほぼ勢揃いするはずです。
高原で迎える朝、さわやかな空気の中、野鳥の妙なる歌声にまどろむのはたとえようもない幸福です。
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