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自然の中でひとりぼっちで暮らすのはたしかに素晴らしいことだけれど、そこでずっと生活し続けるのは簡単じゃない。
理論的にはできなくはないし、じっさいにそうする人もいる。しかし自然というのは、ある意味で不自然なものだ。安らぎというのは、ある意味では威嚇的(いかくてき)なものだ。その背反性を上手に受け入れるにはそれなりの準備と経験が必要なんだ。だから僕らはとりあえず街に戻る。社会と人の営みの中にもどっていく。(村上春樹「海辺のカフカ」)
作中で「大島さん」が語るこの一節に出合ったとき、これはぼくのことを語っているのではないかと錯覚しそうになった。これまで何度もこの部分を読んだはずなのに、今回初めて「発見」したように感じるのはなぜなのだろう。今回初めてこの一節がぼくの心の扉をたたいたのかも知れない。
文字通り「ひとりぼっち」で暮らすのは確かに素晴らしいけれど、ずうっと、というのはどうだろう。それが容易かどうかはひとによるかもしれない。タイミングや生き方によるかも知れない。また、誰かと一緒に暮らしていても「ひとりぼっち」ということはあり得る感情でもある。
スタンスとして、あるいはぼくは「ずっとひとりぼっちで暮らしてきた、この13年間」というべきなのかも知れない。そして「自然というのは、ある意味で不自然なものだ」という一見逆説的な言葉も体験的には共感できるものだ。同時に「安らぎというのは、ある意味では威嚇的なものだ」ということもよく知っている。
初めてこの地を訪れたひとが感じる「なにか違和感のようなもの、あるいは畏れ(おそれ)のようなもの」とはじつはそのようなものなのだ。すぐに安らぎの世界に入っていけないとすればそのためだ。しかし早々に、安らぎと癒しの中で自然への畏敬を抱くようになっている自分をそこに発見することになるだろう。大切なのは心を開いて自然に向かい、身も心もゆだねることだ。
それがわかるのは、ぼくが「ここ」に13年間暮らしてきたからだ。蓼科の山岳部に当たる北八ヶ岳ピラタスの丘にまるで仙人のように身を置いてきたからだ。「人生とは、好きな土地で好きなひとやものや犬とともに暮らすことだ。」とある作家は書いた。結果を見ればこの言葉がぼくをここに導いた。
じっさい、ぼくは好きな土地で、好きなひとやものや犬とともに暮らしてきた。ここは「自分の居場所」であり、この地の自然はぼくを癒し、導き、教えてくれた。同時にぼくは改めて人間の無力さを思い知らされ、本来持つべき自然への畏敬を抱くようになった。
太陽や月や星の巡るのを感じながら生きることを学んだ。森の時計にシンクロナイズして暮らすことを学んだ。自然の理(ことわり)としての生と死、そのシンプルな「原理」あるいは「おきて」とでもいうものを教えられた。
同時に、自然の与えてくれる「安らぎ」のなかにひそむおどろおどろしいほどの「威嚇的ななにか」を感じることも出来るようになった。それを「野生の気配」と呼ぶべきかも知れない。それに耳を傾け全身全霊で感じることが、いまではできる。そして、野生動物や原生林の樹木や植物のほかにも、森にはじつに様々な存在があることを知る。
それを「森の精霊」と呼ぶことにやぶさかではない。なにかがそこにいて、あるいは僕らを取り巻いていて、ぼくらの理(ことわり)とは無関係に存在している。それは神でも仏でもないなにかであり、ぼくの知る限り一切の悪意とは無関係ななにかだ。それはただ善意に満ちてそこにある。その善意を受け入れることが森で暮らす極意なのかも知れない、けっこう難しいことなのだけれど。
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