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ぼくは存在なのだろうか、それとも現象なのだろうか。ぼくはそもそも「存在」なのだろうか、この世界の中に存在するなにものかなのだろうか。それともこの世界で生起している星の数ほどの現象のひとつにすぎないのだろうか。その現象の反映のひとつに過ぎないような気がする。サルトルの「存在と無」の議論に触れていると、どうもそんな気分になってくる。自分とはひとつの現象である、と。
まあ、議論のルーツにフッサールの「現象学」があるのだから当然なのかも知れない。意識もまた「現象」として扱うことが出来るのだ。そのことはこの書物の副題にあるとおりだ、「現象学的存在論の試み」。そのことにぼくも異論はないし、むしろぼくもそのように考える。個人的な直感としても同様の認識を持っている。少なくとも「ぼくの意識」は「現象」である、と。
ぼくは大学で実験心理学(experimental psychology)の徹底した訓練を受けた。2000人もいる文学部の同学年でたった16人の学生をその2倍の人数のスタッフが徹底的に教育するシステムの中で、受験勉強以上の学業をこなした。行動主義心理学(オペラント条件付けの仮説に基づく学習理論)、行動科学、サイバネティクス、ゲーム理論、知覚、ゲシュタルト心理学、人工知能、最適化理論、モデル構成、確率論、解析学、統計学、尺度構成、知能テストの作成と検証、論理実証主義、プラグマティズム、精神医学、臨床心理学、社会心理学、教育心理学、発達心理学。懐かしい名詞が記憶の彼方から湧き出てくる。そのすべてがいまの僕の血となり肉となってぼくという存在を形成している。当然のことながらぼくの卒業論文は「実験心理学的存在論の試み」となった。
それはさておき、ぼくは学究となり学者を目指すべきだったのかも知れない。人生に「もし」はないと信ずるものだけれど、そのことだけはとても興味がある。当時のぼくは学会とか学者の社会とかそういうものにおそらく耐えられないと考えた。それで、その正反対の極である広告業界に飛び込んだのだ。それによって自分を正反対の人間に変えることが出来ると信じて。
結果は見てのとおりだ。いま、ぼくは、ここに、いる。そこはぼくのいるべき世界ではなくぼくの居場所はしだいに限定され最後には自ら決別することとなった。まあ、ぼくに広告マンとしての才能がなかった。すくなくとも超一流の才能はなかったということは、現在のこの広告下手の現状を見れば明らかだ。燃え尽きてしまったということもあるけれど。
そのようにしてぼくは真綿で首を絞めるようにして存在を否定され抹殺されたのだ。良い仕事をする必要はない、利益の上がる仕事をしろというのが至上命令だったのだから、ぼくの仕事ぶりが評価されるはずもなかった。じつにイノセントだったのだ、お馬鹿さんだったのだ。いまならそのことがよくわかるし、よく見える。しかし時間を戻したとしても、ぼくは同じことをするだろう。
だから、もし学究となっていたとしても、その世界での成功はおぼつかなかったことと思う。ぼくはスタンドアローンで生きるべき人間として生まれついているのだと思う。利害の絡む複雑な人間関係の海を航海するすべは努力だけでは身につかない。それは持って生まれた才能のひとつなのだ。ぼくは致命的にそれに欠けていた。
そんなぼくには泥臭い営業活動は出来ない。それが最も有効な営業活動だとわかっていても、それはぼくの土俵ではないのだ。ただひたすら誠実に語りかけることしかできない。ただひたすら誠実に営業するしかない。ただ誠実にお客様に接するしかない。結局のところ、ひとは「自分の土俵で自分の相撲を取る」ほかないのだ。
ああこんなことを書くのではなかったと、いま後悔している。でも、他に書くことが出てこない以上、公開しちゃえということで。こういうことを書かないのが商売上手なペンション・オーナーの条件だというのにね。
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