曇りのち雪 気温:最低 - 6℃/最高 3℃
上空に寒気団が来ているらしい。朝のうち曇っていたのが、午後遅くなると雨になり、やがて雪に変わった。この季節には地表近くの気温に関係なく上空の寒気の強さによって、雨になったり雪になったりする。
この景色を見てびっくりするかも知れないが、これはピラタスの丘のある標高1700m以上での出来事で、標高1600m以下では確実に雨になっている。ピラタスの丘の道路もほとんど積雪はなく、地熱ですぐに融けて流れてしまう雪だ。
春の雪はいつも「淡雪(あわゆき)」なのだ。
シベリアンハスキーのパルは思いがけないこの積雪に大喜びだった。はね回りながら雪の上を選んで散歩した。やはり血は争えないというか、DNAに雪と氷の記憶が刻み込まれているのだろう。そのような厳寒の気候と風景が彼の故郷なのだ。
1枚目の写真は Richo Caplio R5 で焦点距離28mm、オートモード、フラッシュ=スローシンクロモードで手持ちで撮影している。こんな感じの写真が個人的には好きだ。あまりにもシャープな写真はちょっと苦手かな。それは僕が印象派の絵画を好んでいることと関係があるのかも知れない。
その一方でレンブラントの絵のあの空気感に感動するのも確かだ。
同じ景色を SONY α100 + DT18-200mmF3.5-F6.3 で焦点距離27mm、プログラムオート、フラッシュ=強制発光、手持ちで撮影したのが2枚目の写真だ。こちらはかなり鮮明に「リアルに」写っているように思う。しかし個人的には「つまんない写真」になってしまった。
「記録」としては優れているかも知れないけれど、間違いなく写真的には失敗している。僕の内面的な風景に近いのは1枚目の方だからだ。あるいは僕の「内なる風景」に近似しているのは1枚目の方だからだ。
コンパクトデジカメに比べて圧倒的な画像解像度を持っている一眼レフの場合はもっとパラメーターを細かく計算して撮影する必要があるのだろう。僕はどんなに暗くてもめったにフラッシュを使わないので、そのあたりの経験的データが不足している。
もっとこのカメラと仲良くして使い込まなければイメージした写真は撮れないのだろう。Richo Caplio R5 はネックストラップで肌身離さず持ち歩いているので、知らず知らずのうちにすっかり習熟してしまったようだ。もちろんそれはよいことなのだけれど。
これまで僕はこのような風景あるいは情景をも、写真を使わずに、すべて文章で表現し伝えようとしてきた。それはこの日記の当初からのポリシーみたいなものだったのだ。もちろんささやかな「個人的なポリシー」であったわけだけれど。
しかしブログ化を決めて移行して以来、社会的状況と「ブログ作成・公開システム」に合わせるかたちで、写真と文章のバランスを考えたコンテンツとならざるを得なくなった。それは自然の成り行きだと思っている。
しかしその一方で、文章ですべてを表現し伝えるという試みを断念することになったのは事実だ。じっさい、いまのひとびとはウェブページの文章を読まなくなったという厳然たる事実がある。それは読むという行為と言うよりは「スキャン」といった方が近いかも知れない。
ウェブ上では「文学的表現」は不適切になってしまったようだ。直感的なあるいは象徴的な写真と簡潔なコメントで構成された、「ブログ」を含む「ウェブページ」こそが現代の潮流となっている、まるでプレゼンテーションのスライドショーみたいに。
それはそれで受け入れるほか無い。
その様式を受け入れ、それに取り組むことで、より多くのひとになにかを伝えることが出来るならば、自分のささやかなポリシーなど捨てて新たなコンセプトで望むのがベターなのだと思う。これは「大勢に従い、おもねる」と言うことではなく、伝えたいことをなりふり構わず伝えると言うことだ。
というようなことで、この伝統ある(?)「蓼科高原日記」もすっかりブログ的になった、かな?
※写真をクリックすると拡大してご覧いただけます。
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