曇りのち晴れ 気温:最低 3℃/最高 18℃
ふたたびラウンジの吹き抜けの大テーブルで過ごしている。このノートパソコン、ThinkPad とはじつに絶妙なネーミングではないか。このような使い方をしていると文字通り"ThinkPad"として機能する。うまい日本語が思い浮かばないのが悔しいけれど。
ブラインドタッチに慣れた僕にとっては、紙とペンで書くよりもキーボードをタイプした方が圧倒的に速く文章を書き上げることができる。思い浮かぶ言葉をリアルタイムで記録することができる。幼少の頃から作文が苦手で学校で課題を出されるたびに泣き泣き原稿用紙のマス目を埋めていたのに、いまではこのような装置を得て、毎日こんなにつらつらと作文できるようになった。
そうだ、道具、装置はとても大切なものなのだ。それを得ることによってひとは変わることができるかもしれない。今まで夢に過ぎなかったことができるようになるかもしれない。もし11年前にインターネットと出会い自分のペンションのホームページを作り更新し続けていなかったとしたら、僕は今何をしていただろうか。
ずいぶん日が長くなった。午後7時近くなっても窓辺では、特にこの広大なグラスエリアのもとでは照明は不要だ。周囲はまだ本が読めるほどに十分明るい。すでに太陽は真っ赤な夕暮れを演出して山の稜線に沈んだけれど、その残光はこうして僕の手元の漆黒のキートップにまで届いている。
夕方歌う野鳥の声が聞こえる。この標高では真夏でも蝉の音を聞くことは少ないから、この季節の野鳥の声が同じような感慨を与える唯一のものになっている。鳥の声もいいけれど、真夏の蝉の声もまた忘れがたい。とくに夕暮れを知らせるヒグラシの声は僕の中の表現しようのないほどの憧憬を構成する主要パーツとなって今も切ない思いをよみがえらせる。
最後にヒグラシを聞いたのはいったい何年前のことだろう。寄せては返す波の音のようにそれは深い森を覆い尽くし、僕らを追い立てるようにして家路につかせる。そんなことを思っていると庭でホトトギスが美しい歌を歌い始める。声の良さと歌のうまさではこの森の覇者かもしれない。
ホトトギスが去ると、今度はウグイスがやってきて歌い始める。まるでオペラみたいなしつらえだな、とふと思う。この次の幕はとても長いフレーズをアドリブで歌うあのアカハラかもしれない。夕闇が迫ってくる。僕の手元も次第に暗くなってキーボードライトが必要になる。このPCには標準でそれがついている、まるでこのような使い方まで想定していたかのように。
村上春樹がギリシャのタベルナで SONY の Vaio であのベストセラー小説「ノルウェイの森」を執筆したことは本人が異例の「あとがき」で述べているとおりだけれど、その感覚がちょっとわかったような気がする。おそらくノートPCというものは僕らが考えている以上のものなのだ。
ノート型に限らずパソコンは本質的に「ものを考えるための道具」だということを改めて確認する、実感する。そこがTVなどの家電と決定的に異なるところだと思う。それはいわば僕らの中枢神経系の「外延」を構成する「エクステンション」なのかもしれない。僕らはそれによって脳の機能拡張が可能なのだ。
そんなことをつらつら考えているうちにとっぷりと日が暮れた。僕の周囲には墨のような闇が漂い始めている。キーボードライト無しではもはや手元が見えない。それでも窓外の景色はまだはっきりと見えるのだから太陽の光は偉大だ。
西の空には沈んだ太陽が演出する残照がまだ薄い朱色に残っているのが見える。遠い稜線から上空の雲まで続く絶妙なグラデーションはいつみても感動せずにはいられない。僕のペンションがなぜサンセットと名付けられたのかは、ここでそれを一目見れば説明は不要なのだ。
さて、そろそろここから立ち上がって居室に向かう時間かもしれない。明るい照明につかのまの、あるいは偽りの安息を求めて。
※写真をクリックすると拡大されますので是非大きな画像でじっくり鑑賞してください。
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