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街を走るとよく諏訪ナンバーのクルマを見かけるようになった。例の「ご当地ナンバー」だ。それはそれでなかなか悪くない。じつは今日ランドローバー・ディスカバリー2を車検整備に出したのだけれど、迷った末これまでどおり松本ナンバーで継続登録することにした。
深い意味はない。ディーラーが松本にあるので、松本ナンバーのほうが仕事がはかどるということだ。もしディーラーが諏訪にあったならば諏訪ナンバーにしただろう。地元の方が切望したような諏訪ナンバーに対する思い入れは、悪いけれど、余所者(よそもの)のぼくにはない。
幼少の頃から転校を繰り返した僕は「転校生」という「余所者」の立場にはすっかり慣れてしまっている。転校生というものは、どんなに溶け込もうとしても、最後の最後には「余所者」であることを思い知らされるのだ。そのことをいやというほど経験してきた。
誰が悪いわけでもない、それは自然なことであり、しかたのないことなのだ。逆に信州生まれのひとが僕らみたいに「浜っ子(横浜生まれ)」になれないのと同じことだ。だから、余所者であることは断じて悪いことではないと考えている。
「余所者」ですがなにか? というわけだ。
もちろん、「郷に入らば郷に従え」というのは賢い教えではある。それは事実であり、真実を含む実際的経験的処世術でもある。しかしそれは、100%地元のしきたりに従えとか、地元の人間になるよう努力せよということではない。同時に地元の人間の下に自分を置けということでもない。断じてそうではない。
地元の人間ならたくさんいるし、もとよりそんな「なんちゃって地元人」なんて純正地元人に比べたら大して役にも立ちはしない。地元になじむことと、「同化」することとは根本的に異なるのだ。ぼくらは、その本質において、「地元の人間」になれるはずがないのだ。
かつて飛鳥時代、平安時代に日本に渡ってきた朝鮮のひとびとのように、ぼくらは地元に「なにか」をもたらすためにやってきたのだと考える方がお互いにとって建設的だと思うのだ。なにか新しいもの、新しいこと、刮目すべきもの、目から鱗が落ちるような新発想や、経験や技術。
そいういったものをもたらすために「余所者」はあるべきだと、個人的には考えている。
同時に、残り少ない人生を「ひとに気に入られるために生きる」ことはしたくない。ひとのために尽くすことはやぶさかではないが、ひとに気に入られるために自分の人生観を曲げることまでは断じてしたくないと思っている。
他人は所詮他人でしかない、移ろいやすく飽きやすい傍観者に過ぎない。人の評価なんてそんなものだ。そんな他人が自分の窮地にいったいなにをしてくれるというのか、そんな幻想を抱くことにぼくは注意深くありたいと願っている。
自分への評価は自分以外に下しようがないのだ。他人というゆがんだ邪気な鏡を信用してはいけない。ぼく自身がそうであるように、人間というものは限りなく美しく同時に醜悪な生き物なのだから。
というようなことを考えたこともないのなら、あなたは「健全」な生育歴の持ち主に違いない。きっと幸せになれると思う。
おりしも蓼科高原はレンゲツツジの群生の見頃になっています。ピラタスロープウエイの他、白樺湖〜車山の群生地が名所です。
※今日の写真は(株)ピラタス蓼科ロープウエイの許諾を得て転載しています。
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