晴れのち曇り一時雷雨 気温:最低 12℃/最高 21℃
きょうもさわやかに晴れ渡って、ひんやりしたさらさらの風が夢見心地にさせてくれます。外に出ると日差しが肌に「熱く」感じます。最初耳鳴りかと思ったのですが、蝉の声が聞こえます。都会とは違ってここで聞く蝉の声は涼(すず)やかです。
居室でこうしてMacを前にして日記を書いていると、キーンという耳鳴りがしてきます。これを「サウンド・オブ・サイレンス」というのでしょうか。背中ではジャズ・ピアノのコンピレーションアルバムが静かに流れています。多忙な中にも心地よい時間です。
高原ではすべての音が柔らかくて、こころに突き刺さることがないのです。
こうしているとなにやらシェスタ(午睡)の時間みたいな気分になってきます。熱帯化しつつある日本でもシェスタを取り入れたほうがいいんじゃないかなどと妄想してしまいます。それほどいま心地よいひとときを感じているのです。高原暮らしの神髄ここに在りって感じ・・・かも。
ここでは梅雨明け宣言と共にいきなり「真夏」(文学的にいうと「盛夏」)がやってきます。それは同時にいのちの季節のピークのことでもあります。しかし、あっというまにそのピークは過ぎてひとつの世代の終焉(しゅうえん)の季節がやってくるのです。
いのちを次世代に繋いでこの世界を去っていくものたちが森に別れを告げるのです。それは植物も動物も同じです。そしてわれわれ人間だって例外ではない。僕のこころも夏が終わるたびにひとつの象徴的「死」を迎えています。
ここに身を置いていると、生と死はひとつのものであり、死は生と共にあり、生は死と共にあるということが実感できます、納得できます。いのちの目的は生きることそのものであり、死は単に生きることの終わりにすぎない、と。
森のいのちたちは、そんなふうな生き様、死に様を僕らに見せてくれます。かれらは生きる意味を問うことなく、死の理不尽を憤ることもなく、ここで生き抜いて、そして去っていきます。
生命の祭典とでもいうべき盛夏だからこそそんなことを思うのかも知れません。
あ、そうそう、僕のマーケティングの先生はこういうことを書きすぎるのは「やりすぎ」であって、ペンション経営者としては百害あって一利無しだと喝破しています。
そうでしょうか?
大きな旅館やホテルの経営者だったらそれは許されないのかも知れません。
小さなペンションの経営者というかペンションのオヤヂだったら、どうなのでしょう?
よくわかりませんが、わからないなりにそんな想いやこんな想いを書きたいとも思うのです。
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追記:
その後しだいに曇り空となる。ストッケ・デュオ(ノルウェイ製の大型の木製バランスチェア)の上でジャズを聴きながらうたた寝していた僕は吹き抜ける冷たい風に当たりすぎて風邪を引いたみたい。
午後4時、一点いわかにかき曇り突然の雷鳴。本格的な夕立となる。車軸を流すような激しい雨になにやら懐かしさを感じる。こういう男らしい(現代ではむしろ「女らしい」と言うべきかも)雨はじつに久しぶりだから。
きょうは明日以降のご宿泊予約をなさるお客様がいつもよりぐっと多い。梅雨明けの声を聞いて、ようやく旅心が動き始めたと言うことかも。どこよりも涼しくさわやかな蓼科の夏は一度体験したらもうやみつきになる。僕らみたいに住みついてしまったお客様もすでに30組を超えた。
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