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「古本屋に若者が来るようにするにはどうしたらよいか」という課題を出すと、若い生徒たちは古本屋のノスタルジーを語ったり、店の頑固親父について語ったりする。しかしそれは「古本屋には古い本がある」ということを情景描写しているに過ぎない。「古本屋には古い本があるなんて知らなかった。びっくり。」なんて言うひとはいない。そんな文章やコピーを読んで古本屋に行こうなんてことにはならない。そんな話しがコピーライティングの本にあった。
あたりまえのことかも知れないけど、改めて指摘されて目から鱗が落ちる思いだった。「高原には美しい自然があります、山があり湖があり森があります。」と僕はこの日記で語り続けてきたからだ。上の例とちょっと違うのは「それらの自然がどのようにあるのか、どのように美しいのか」も書いてきたことだろうか。いずれにしても、それじゃあだめなんだってこと。「ああ蓼科には豊かな自然があってそれがとてもきれいなんだって。びっくり。」それで蓼科に行こう、ペンション・サンセットに泊まろうということにはならないのだ、たぶん。
「描写」ではなく「解決」なんだ、とその本の著者は言う。「古本屋には古い本があります」と書く変わりに「お風呂で読むための本や雑誌なら、古本屋で」と呼びかけてみる。半身浴などで本がふやけてしまうような場合でも古本ならもったいなくない、と呼びかけてみる。すくなくともこのコピーは現状を何とかして「解決」しようとしている。文章(コピー)を書くときに「素晴らしい言葉を綴ってやろう」と考えることと「いまある状況を何とか変えさせてみよう」とすることとはちょっと方向性が異なるということ。そのズレは致命的なのだということを指摘された。
この本のことは NBonline のあるコラムで知った。本との出会いにはじつに運命的なものがあると改めて感じる。
で、思ったのは、コピーライターが広告コピーを書くのと、「自分のペンションに泊まって欲しい」と思う僕がその目的で文章を書くのはまったく同じなのだろうか、ということだ。それはコピーライターが書く日記と、ペンション・オーナーが綴る日記とは同じなのだろうかという思索へとつながっていく。
ホームページの文章については「同じ」だと思う。でも、蓼科高原日記はまた別の世界を持っているように思うのだ。結局その二極端の間で迷走しているのが現状なのかも知れない。
結局コマーシャリズム(商業主義)がすべてを支配するかのような世の中になってしまった。それが嫌で、それもひとつの理由で広告界を去った僕が、ふたたびコマーシャリズムと正面から対峙し取り組まなければならないなんて、皮肉というか、因縁というか・・・。いずれにしても、この歳になってコピーライティングを改めて勉強することになったわけだ。
別に広告関係者でなくても、企画書などのビジネス文書を書く機会のある人なら、あるいはブログをやっているひとも読んで大変ためになる本だと思う。
広告コピーってこう書くんだ ! 読本 谷山雅計著 (宣伝会議新刊)
これはおすすめ。
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