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「蓼科高原ピラタスの丘にお客様が来て下さるようにするにはどうしたらいいか」という課題を自分に出してみよう。「蓼科高原ピラタスの丘には美しい豊かな自然があります」というだけではダメだということは、昨日書いたとおりだ。「ああそうなんだ、知らなかった!」とびっくりしてピラタスの丘に行こうなどとは誰も思わない。
なんらかの「解決」を目指さなければならないのだけれど、難しい。
「そのピラタスの丘にペンション・サンセットという宿があります」と書いたところで、「そうなんだ、知らなかった!よし、さっそく行ってみよう」ということにはならない、あたりまえだけど。
それがあたりまえの世の中なのだけれど、なんだかつまんないね。
僕なんか「高原」と聞いただけで血が騒いで行きたくて、というか、そこに少しでも長く身を置いていたくてじりじりしたものだけれど。ひとそれぞれだから、別に「高原」じゃなくてもいいんだけど、なんか投げかけられた言葉に強烈な憧憬を喚起されるということが無くなってしまったのだろうか。
というのが僕の正直な感慨なのだけれど、そんなことをいっていたところでなにかが変わるわけでもない。変えたいのならば、言葉の力を信じてみるしかないじゃない。
いま、厚さ20センチにもなろうかというお客様からのメールのプリントアウトを読み返している。そこにはお客様の目線でご覧になったり感じたりした感想がぎっしりと書いてある。
なぜペンション・サンセットはお客様にとって心地よいのか、その理由をお客様は追求する必要は全くないけど、僕はきちんと分析して論理的に明確に理解していなければならない。
なぜペンション・サンセットのお料理は美味しいと評価されているのかについて、僕はその理由を現象面、実際面を通して明確に理解していなければならない。
なぜペンション・サンセットを愛して下さるお客様がこんなに多いのか、その理由を「なんとなく」でもなく「感覚的に」でもなく「論理的に」僕は理解しなければならない。データとして所有しなければならない。
そうでなければ僕はなにかを変える力のある文章によって、まだご利用になったことのないお客様にペンション・サンセットをご利用いただくことは出来ないだろう。
感覚が感覚で終わってしまってはいけないのがコピーライティングというものだ。緻密な論理的思考とそれを裏付けるデータに基づいた的確な方向性を持っていないコピーは、ひとのこころに訴えかけるものがない。ひとを動かす力がない。
誰に、なにを、どのように訴えかけるかが大切だ。
みんなに、いろんなことを、総花的に訴えるというのがよくある落とし穴。
僕もはまっちゃってる、正直言って。
う〜ん、一朝一夕にはいかないな。
暗礁に乗り上げた。(^_^;)
蓼科高原日記、つまりこのブログは感性の表現であり、直感の記録であり、森を散策するひとの思索の記述だった。それは過去も現在もそしてこれからも変わることはないだろう。そうでなければ僕は書き続けることが出来ないだろう。
蓼科高原日記は僕のきわめて個人的な日記である。
このことは変わらない。
コピーライティングはまた別の場所、別の場面、別の次元の話しなのだ、やっぱり。具体的にはこのブログではなく、ペンション・サンセットのホームページを舞台とするべきなのだと思う。その舞台では僕は生粋のコピーライターとして語り、こちらの日記では個人として語る。
うまくいくかどうかわからないけど、とりあえずそうしてみようと思う。
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