晴れ 気温:最低 0℃/最高 7℃
プール平(ぷーるだいら)の蓼科郵便局脇から大滝(おおたき)に向かう遊歩道に入る。プール平の広大な駐車場を右に見ながら渓谷へと歩みを進める。2軒ほどの別荘をやりすごすと、そこはもう「秘境」と言っていい世界だった。
色とりどりの落葉がふかふかの絨緞となって地表を覆い尽くしている。夕方の遊歩道はほの暗く、そして色鮮やかだ。斜面や舗道には濃緑のコケに覆われた大小の岩がまるで誰かがレイアウトしたみたいにきちんと整列している。
大岩を抱くようにして立ち、のたうち回るように光を求めて伸び上がる赤松の巨木。倒木からそびえ立つ落葉松。雨上がりの遊歩道にはそれらの樹木の根が露出していて驚くほど滑る。注意深く歩みを進める。渓流の音がどんどん大きく聞こえるようになってくる。ここはまさに「異界」だ。
案内板では徒歩7分となっていたけれど、写真を撮りながらということもあって、もうずいぶん長い時間歩いているような気がする。途中、いくつかの分岐点があるが、案内板が整備されているので迷うことはない。蓼科湖に向かう小径、親湯方面に向かう小径などなど。しかし、まっすぐに大滝へと向かう。
急に湿度が高く、寒くなる。吐く息が真っ白だ。僕らは森の奥深く、道無き道を歩くことに慣れているから平気だけれど、そうでなければ雨上がりの夕暮れ時に歩く道ではないのかもしれない。丸太で土留めした階段は、よく見るとコンクリート製の丸太であることに気づく。そのことからも、じつによく手入れされた遊歩道であることを知る。
上を見上げればそこには美しい紅葉がある。空はまだ明るく、その光を透過する樹木の葉はとても幻想的な照明となっている。渓流の向こうの森もすっかり紅葉に覆われている。右手は石積みしたように苔むした岩が積み上がって露出している斜面だ。左手にはまだ見えないけれど確かに渓流がある。
やがて、遊歩道の階段にも苔むした濃緑色の岩が散在するようになる。しだいに水音が大きくなることから大滝が近いことを知る。途中左手に丸太を並べた橋を発見するが、向こう岸には渡れない。その橋を渡るといったいどこに行くことができるのだろう。その橋からはそもそも向こう岸に渡ろうという意志を感じることができない。
まるで誰かの夢の中にいるみたいだ、と思い始める。この世界はじつに不安定で脈絡も無く、現実世界としての整合性を欠いているように感じられる。変幻自在で、明確な意図もない。これは僕自身の夢なのかもしれない。
やがて八角形の洋風の東屋がこの道の終わりを告げる。その向こうに目的地の大滝が姿を現す。美しい風景だ。水音も涼やかで流れは澄み切っている。ここには邪気というものが感じられない。おそらく、明るい朝日の中でもう一度この道を歩いたなら、こんな奇妙な印象を持つことはなかったのだろう。
よく眠ることのできた朝のさわやかな目覚めのように、単純に、明るく美しい遊歩道。誰かさんの爽快な目覚め、といった印象を持ったに違いない。じっさいに、そうなのだと思う。この遊歩道はそのように光と癒しに満ちた世界なのだ、本来は。
しかし夕暮れ時の森はじつに様々なものが跋扈する世界なのだ、たぶん。それは都会でも同じだと思うけれど。このような時間帯には夕陽以外にカメラを向けるべきではないのだ。そのひとの心のありように応じて、じつに様々なものが写り込んでしまう。
僕の写した写真も例外ではなかった。それらは僕にしか見えないものだけれど、たしかに写り込んでいた。だからここに載せるわけにはいかない。じっくり見て確認した上で、すべての写真を削除した。自分の心のかたちを、その有り様をウェブに公開するわけにはいかない。記録として残しておく気にもならない。
しかし誤解してはいけない。それを写し込んだのは、僕の心の働きであって、カメラのレンズではない。それは客観的な事実ではなく、実在するものでもない。あえて言うならば、ある種の「夢」がメタファーとして形をなして現れたに過ぎない。心の認識の仕組みがメタファーの質を決定するのであって、その逆ではない。
ア・リトル・スリラー。
★★★
念のため、書いておいた方がよいと思うけれど、これは僕のきわめて個人的な体験に基づくフィクションであって、「蓼科奇譚」というようなものではない。
大滝遊歩道は蓼科の住民にもこよなく愛されている、じつに美しく清涼な遊歩道である。蓼科の人々の愛情のこもった手入れによって維持されている思索的散歩道といえるかもしれない。蓼科を訪れたならば、是非一度は歩いてみていただきたい。
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