晴れ 気温:最低 - 11℃/最高 - 5℃
標高1750m、北八ヶ岳の中腹。亜高山帯の森は深雪に抱かれて深い眠りについている。まるでこの世界には、もはや自分だけしか生き残っていないのだと思いこんでしまいそうなほど、あらゆるものが気配を消している。しんと静まりかえったこんな場所で、氷点下10℃以下の深夜に、オレはいったい何をしているのだろう。ふと、そう思った。
毎日、日記(あるいはブログ)を書き続けることはさほど苦痛ではない。むしろ、楽しみでさえあるかも知れない。しかし、最後にそう感じることができたのはどれほど前のことだったろう。
理由はおそらくふたつある。ひとつは、時代は「上から目線」でものを言うことを極端に嫌っているということ。過剰反応とはいえ、それは大上段から斬りかかる議論を排斥するようになっている。ふたつめは、ひとびとは精神の奥深い部分に触れることを畏れるようになったと言うことにある。
哲学や形而上学は人々がもっとも忌み嫌うものになった。たしかに、そんなもので腹がいっぱいになるはずがないのだ。お金を儲けることなどできないのだ。小難しいことを言って、なんだか偉そうってなものだ。
僕も若い頃はそう感じたから、よくわかるのだ。
現代は「共感」のコミュニケーションの時代だと言われる。「ね、そうだよね、そう思わない?」・・・「うん、思う、思う、そうなんだよね〜。」という形式のコミュニケーションだ。それはそれで良いと思うけれど、そうでなければならないとされると、個人的には異議を唱えなければならなくなる。
しかし、そうした時流に逆らって想いを語ったりものを言うことによって、ペンションという自分の生業が危うくなる時代なのだ。だから、この僕でさえ、昨今はずいぶんおとなしく慎重な物言いになっていることと思う。
生きると言うことは、ほんのひとつまみの歓喜と残り全部の苦悩と苦痛で満たされたものなのかも知れない。それがあたりまえなのかもしれない。心の持ち方しだいで、もうすこし快適に人生を送ることもできるのかも知れないけれど。
それでも、人生は生きる価値があると、個人的には思うのだよね。生きる意味については回答不能だけれども。
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