レゾンデートルとしての「神」
ジョン・レノンは唄う。"God is a concept by which we measure our pain."
われわれの「世界」がそうであるのと同様にわれわれの「神」もまた「構成」された神である。
あるいはこの世の不条理を合理的に受容する(あるいは受容させる)ために創作された神である。でなければ神を語るに「奇跡」など必要ない。神の「ある」ことは集団においては伝承的事実、個人においては体験的事実だからだ。神は「様々に自身を現わす」必要などない。神はあまねく「ある」からだ。
僕は論文を書いているわけではないからこの文章は論理的にも論拠的にも「穴」だらけだ。僕は自分の体験的、個人的「神」について書いている。あるいは僕が個人的に生きている「この世界」について語っている。嫌われるのを承知で、それでも「いま」書かずにはいられないから書いている。
ジョン・レノンは神が道具存在であると唄っているわけではない、もちろんこれは「たとえ」である。「神とはわれわれが自分の苦痛を測る概念である。」
そうだ、ここで歌われているのは「概念としての神」なのだ。
もちろん、超越存在としての「神」は「概念」ではない。
いずれにしても「神」は必要なのだ。僕にもあなたにも、きっと「神が必要」なのだ。「神」が無ければ「救い」も「秩序」も無いから。もはやわれわれは「神」ではなく、直接的に「救い」を切望すべきなのかも知れない。
しかし、「救済」は「神」の仕事ではない。
しかし、「信仰」は我々の側にある。
だから、そのために、「救済」を人々にもたらすためにこそ宗教はあるのだ、と僕は思っている。
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