思考が時間であるということ
個人的「日記」本来の姿に戻って以前のように自分が書きたいことを書くことにする。
そのほうが面白いと思う、僕にとっても、読んでくださるひとにとっても、たぶん。
今日の写真は初冬にピラタスの丘で撮影した夕景です。空の広がりと青のグラデーションが
見事です。
※写真をクリックすると拡大してご覧いただけます。
☆☆☆
「思考が時間である」というクリシュナムルティの見解が真実だとするならば、僕にとっての時間とはこの日記(あるいはブログ)を書いている時間こそが真の時間と言えるのかも知れない。
そもそも時間に「真の時間」とか「偽の時間」とか言う区別があるのかどうかは僕にはわからない。
しかし、いずれにしても、僕のこの「静かな生活」にとって、「蓼科高原日記」と向かい合う時間はたとえようもなく貴重なひとときなのだ。
こうして文章を書いている---まあ実際にはキーボードをタイプしているわけだけれど---時間は、僕にしてみれば「時間が止まっている」ように感じられる。逆説的だけれどこれは真実だ。
僕にとって、経過する時間、過ぎ去った時間こそが「まぼろし」のように思われる。それはいかにも「便宜的」なもののように感じられるのだ。存在する事物の空間的移動ではなく、時間軸にそった運動を表すための便宜的装置あるいは取り決めのように感じられる。
しかしそれらの事物は本当に時間的運動をしているのだろうか?
それらは時間と名付けられた別次元の空間を移動しているのかも知れないではないか。
いずれにしても時間も空間も我々の内なる精神的装置であると考えることには充分な蓋然性があると思う。
我々の外に景色(美・あるいは世界)は存在せず、 それは我々の心の中に構成されるものなのだ。
というのは、僕の個人的な直感に基づく持論なのだけれど、歳を重ねるにつれて益々その思いは強くなった。
現実とは我々を入れる器ではなく、我々が自分で構成した世界のひとつに過ぎないのだ。
そのような意味において、僕は僕のこの現実に責任がある。
※このエントリーはアーカイブから選択して再録した番外編とでもいうべきものです。
これを書いた僕自身が当時の自分といまの自分とを見直す作業でもあります。
ご笑覧いただければさいわいです。
最近のコメント