生きる意味、生きる価値、そして世界
ラウンジの窓外は日差しがあってもなくても立体的なディジタル画像のようなバーチャルな新緑の世界になっている。変な表現かもしれないけれど、それほど美しいのだ。ハイヴィジョン用に人為的に調整された映像を見ているような不思議な感覚に陥るほどに。
それは全体(ゲシュタルト)としての新緑という概念を感じさせる。個別の木や森はそこにはない。なにかが僕の心の中のスイッチを押して新緑に関するあらゆる感覚と感動の思い出を一気に引き出す、ちょうどそんな感覚がある。だから、これは個人的な感動といえるかもしれない。
何度も書いてきたけれど、風景は「そこ」にあるのではなく、心の中にしかないものなのだ。
矛盾と不条理に満ちたこの世界は、じつは僕のきわめて個人的な世界なのだ。このように生まれ、このように育ち、このように生きてきた僕の人生経験が生成するパーソナルな「世界」なのだ。その証拠に「この世界」は僕の死とともに消滅する。
しかしあなたの世界はそんなことには頓着なく何事もなかったかのように続いていくのだ。あなたの世界は絶対的にあなたのものだからだ。僕らは同じ世界を生きていると思いこんでいるが、そんなことはない、それはある種の共同幻想に過ぎない。
というようなことをよく書いていた時期がこの日記にはあった、というか、そんな自分がかつては存在した。西暦2001年5月の蓼科高原日記にその記録があった。我ながらものすごく刺激を受けた。ほとんどの人にとってはどうでもいいような小理屈かもしれないけれど、自分のありように関する悩みを抱えている人の興味は引くかもしれない。
結論から言えば、何のために生きているのか生きなければいけないのかという問いに答えはない、永遠に、この世界にもほかの世界にも。問いの立て方が間違っているからだ。それはなにものかの「意図」にかかわる問いだからだ。そのなにものかは、概して「神」と呼ばれている。
しかし生きる価値について問いを立てることは可能だ。価値を計るのは人間だからだ、最終的には自分自身だからだ。だから生きる価値について問うべきなのだ。自分がいまここにあることの価値を問うべきなのだ。何を成し遂げたかというようなことではなく、ただいまここにあることの価値を。
そのようにして僕は答えのない問いかけから解き放たれたわけだけれど、それで何かが変わったわけではないし、ドラマみたいにハッピーエンドを迎えるわけでもない。はっきりいって何も変わらなかった。そして思ったのだけれど、釈迦をはじめとした悟りを得て解脱した人々も同じようなあっけなさを感じたのではなかろうか。
世は彼らの偉大さ聡明さを褒め称えるけれど、彼らが幸福になったか、幸福だったかということについては誰も問わない。悟り、解脱もまた新たな出発点に過ぎなかったのだと思う、たぶん。この世界もあの世界も、そのような弁証法的進行を続けるようにしつらえてあるのだ。
なにがあろうと、僕らがいようがいまいがこの世界は絶えることなく進行していく。
Never Ending Story.
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