(承前)
以下は観ての通りだいぶ昔の「蓼科高原日記」の記事である。
とても長い文章なので、携帯からアクセスしている方は覚悟していただくか読むことを断念した方がいいかもしれない。
☆☆☆
2003.01.15(水)----雪のち晴れ 気温 = 最低 -15度/ 最高 -7度
『私がいまここにあることに私は満足しているし、掛け値なしに一切後悔していない。しかしそのことと過去を語ることとはまた別の話だ。』
と、私は昨日書いた。年を経るごとに過去を思い起こしたり語ることが多くなったのは、私が明らかに「人生のピーク」とでも呼ぶべき地点をすでに通過してしまった事実を物語っている。それは自然なことだし、逃れようの無いことであると思う。
私は人生の頂点を過ぎて久しく、すでに「老い」の段階に入っている。それは気持ちの問題ではなく、しごく単純明快な「事実」である。そうであるならば、そのように生きるしかないではないか。いまの自分に出来ることを行い、できないことはできないと認める他ない。でないと何も始まらないし、一歩たりとも前に進むことができない。
いまそこに在る事実を認めることから始めなければならない。たとえそれが自分にとって堪え難いものであったとしても。あるいは「かつての自分」からすれば信じられないほど無力な自分をそこに見いださざるを得ないとしても。
旅人が来し方の事物を語るのと同じように、人生のピークを過ぎて「夕暮れ」に向かう人間はあたりまえのように「過去」を語ることになる。それは(くりかえしになるが)自然なことなのだ。これから起こるであろうことよりも、過去に遭遇し通過してきた経験のほうが圧倒的に多いのだから。そしてはるか未来を語るにはすでに人生は短い。だからお若い方々はどうかそのことに寛容であって欲しいと願う。
というようなことをいうと、「まるで70代の男性の語ること」のようだと思うかも知れない。自分でもそう感じないでもない。50歳なんてまだまだ若い、ヒヨッコだという世界もあるだろうから。しかし、年齢というものは極めて「個人的」なものなのだ。実年齢はその人間の通過してきた(単なる)時間で測られるべきではなく、その密度と消費したエネルギーの乗数で語られるべきだ。
だから私は単に齢を重ねただけの老人をイノセントに尊敬したり信じたりできない。ある意味において年齢は関係ないのだ。そうした意味において、ただ歳をとっているというだけで「敬愛し尊敬しなければならない」という社会的通念には無理がある。どのような年齢の人間にも「素晴らしい人間」から「どうしようもないろくでなし」までじつに多様な人間が存在するのだから。
ただひとついえるのは、彼らがその年齢まで生き抜いてきたという一点だけには無条件に相当の敬意を払うべきである。人生、単純に日々生き続けるということだけでもじつに大変なことなのだから。人間性はまた別次元の話だけれど。
私の人生は残り数秒からじつに数十年という可能性の中にある。何れにせよはっきりしているのは、私が確実に「中年」と呼ばれる世代から「老人」と呼ばれる世代へと向かって進み続けていて、その事実はいかんともしがたいということだ。それは受け入れなくてはならない、事実として。
17歳の私は50歳の私を想像することすらできなかった。それはまるで20世紀にあって30世紀の世界を想像するよりも困難なことだった。50歳の自分を想像することは永遠を思うのと等しい行為だった。しかし、ひとは確実に歳をとり確実に50歳になるのだ、この私が証明しているように。
(つづく)
☆たてしなラヂヲ☆
最近のコメント