村上春樹の「海辺のカフカ」を読み返してみて改めて感じたのだけれど、テーマは「こころ」なのだという気がする。感情の動き、つまり「感情がある」ということと、「こころがある(こころを持っている)」ということとは根本的に異なるのだということをぼくはこの作品を通じて知った。恥ずかしいけれど、生まれて初めてこの両者の違いを確認した。 そして読み解く鍵は「万物はメタファーである」というゲーテの言葉、そして「フランツ・カフカ」。 主人公の15歳の「田村カフカ」にとって「佐伯さん」はメタファー(あるいは反証のある仮説)としての「生みの母」であり、「さくら」はメタファー(あるいは反証のある仮説)としての「義理の姉」であるのかもしれない。そして「大島さん」はこの不思議な物語の全体構造を体現するメタファーであるようにぼくには感じられた。いうまでもなくこの作品の底流をなす骨格はギリシャ悲劇である。 そしてメタファーとしての「入り口の石」を通じて、さらに奥深い部分で「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」で語られた「世界の終わり」の街と繋(つな)がっている。底知れぬ存在の重さを持った太古の森の奥深く・・・「入り口の石」が開いているときにだけ出入りすることができる街・・・そこに登場するのは間違いなく「あの街(世界の終わり)」だ。 だから再読するに当たってぼくは「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」を精読した。ぼくは1979年以来の村上春樹ファンというか「熱烈的読者」なのだけれど、最近になってようやく彼の作品に含まれる様々な仕掛けを「構造的」に理解できるようになってきた。村上作品は普通に通読してもこの上なく魅力的な作品ばかりだけれど、その構造なりキーワードをバックグラウンドにまでさかのぼって考察することにより本来の奥深い世界をかいま見ることができるのかも知れない。 それにしても、今回再読してもっとも強く印象に残ったのは「雨月物語」から引用された次の一節だった。昨日も引用したしそれ以前にも書いたけれど、あえて再度記したい。(現代語訳は僕のつたない解釈です。この引用に触発されて読破しました。) 『我(われ)今仮に化(かたち)をあらはして語るといへども、神にあらず仏にあらず、もと非情の物なれば人と異なる慮(こころ)あり。』『我(われ)もと神にあらず仏にあらず、只(ただ)これ非情なり。非情の物として人の善悪を糺(ただ)し、それにしたがういはれなし。』(上田秋成・「雨月物語」) (「いま私は仮に人間のかたちをしてここに現れて語ってはいるが、神でもなく仏でもない。もともと感情のないものであるから、人間とは違うこころの動きを持っている。」「神でも仏でもなく、ただ感情を持たないものである。だから人間の善悪を判断する必要もないし、人間の善悪の基準に従って行動を律するいわれもない。」) この語りはまるで僕自身のことのように感じられる。あるいは以前書いたように、自分がそれとは対極におかれているようにも感じる。それは交流電流のようにめまぐるしく極性を逆転していったいどちらが現実なのか(真実なのか)わからない。ぼくにはもとより「感情」はあるのだろうか、人間としての「こころ」はあるのだろうか。 「現実」とよばれるこの世界にどうにもしっくりと馴染めない自分をなんとかここまで操ってきたけれど、長い間それをやっているとほとほと疲れ果ててしまう。村上春樹氏はぼくより3歳年長だけれど、彼はどのように思考しどのように「自分のダンス」のステップを踏み続けることができたのだろう。ぼくはもううまく踊ることができなくなってきているというのに。 --- ●ペンション・サンセット ●蓼科高原日記 ☆たてしなラヂオ☆
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