以下は2002年02月01日に僕が書いた記事です。 前回の記事の補足として引用しますね。 ★★★ 2月になりました。静かな1日が過ぎ去ろうとしています。この国の経済は運を天に任せたような日々が続いています。たくさんのひとが痛みと悔しさに涙を流しています。いろいろな場所でたくさんのひとが歯を食いしばって耐えています、なんとかしようとがんばっています。 みなさんもそのひとり、そして僕もそのひとりです。 しかし結局のところ政治は政治的利益に向かって動き、官僚は官僚機構の存続と利益に向かって進むのです。これだけ巨額の「公的資金=税金」の投入を受けながら、いずれ銀行は自己保存のためのみに平然と「貸し渋り」を行い庶民を苦しめることでしょう。そこに倫理的人間は存在しない。国家とか官僚機構とか銀行とかいう「抽象的概念」のためにひとがひとを踏みつけにし裏切りを続ける「概念」としての人間しかいない。 もう、抽象はお終いにしよう。具体的にものを考えよう。この手で触りこの目で見ることのできるものについての、そのような思考をしよう。世界はあまりにも抽象的、シンボリックになりすぎた。実感の伴わないイデオロギーが支配する世界になってしまった。まさにゲーム世界だ。そこでは本当にひとが死に、血を流すというのに、そのことが実感できないように巧妙に作為されている。 そんなゲームのスイッチを切って、空を見上げるところから僕らは再生への道を歩み始めなくてはならないと思う。銀行が破綻するのは銀行自身の責任であり、我々の責任ではない。大銀行が破綻しても金融恐慌が起こっても世界は終わらない。それは悪夢かもしれないが、世界が終わるわけではない。 もうそんな根拠の曖昧な「脅し」に踊らされるのはやめよう。僕らが金融システムを救うために痛みに耐えたとしても、彼らは「貸し渋り」や「差し押さえ」でそれに報いてくれるだろう。そもそもこの痛みは一身に彼ら自身が負うべきものなのだ。身から出た錆なんじゃないのか? 「構造改革」は必要だが、「この構造改革」にはそんな欺瞞性がまとわりついて離れないような気がする。これは「我々の(ための)構造改革」ではなくて、「彼らの(ための)構造改革」なのだ。そのことがしだいに鮮明になってきたとは思いませんか? (蓼科高原日記 2002年2月1日の記事より引用) --- ●ペンション・サンセット ●蓼科高原日記 ☆たてしなラヂオ☆
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