10月下旬の御射鹿池(みしゃかいけ),水面に映る景色がすばらしい!
昨年シャープのアクオスのTVCMで一躍有名になった紅葉の名所です
写真クリックで拡大してご覧いただけます。
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前回記事のづつきです。先日《般若心経》のことを書いたので、参考までに2002年11月下旬に僕が書いた記事を再掲載します。《温故知新》ということもあるしね。(^^)
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すなわち、問いが成り立つところでのみ、疑いも成り立ちうるのであり、答えが成り立つところでのみ,問いが成り立つ。そして答えが成り立つのは、ただ、何ごとかが《語られうる》ところでしかない。
たとえ《可能な》科学の問いが《すべて》答えられてとしても、生の問題は依然としてまったく手つかずのまま残されることだろう。これがわれわれの直感である。もちろん、そのときもはや問われるべき何も残されてはいない。そしてまさにそれが答えなのである。
生の問題の解決を、ひとは問題の消滅によって気づく。
(疑い抜き、そしてようやく生の意味が明らかになったひとが、それでもなお生の意味を語ることができない。その理由はまさにここにあるのではないか。)
ウィトゲンシュタイン
そうだ、われわれは《立てることのできない問い》を立てようとしている。
自分が生まれてきた意味を、そして生きることの意味を示して欲しい、と
この世界がこのようにあることの意味を示して欲しい、と。
しかし
ウィトゲンシュタインのいうとおり
われわれにその問いを立てることはできない。
われわれはこの世界にあり、神はこの世界に姿を現しえないからだ。
この問いを立てること、問い続けることあるいは願い続けることは
人生の観点からすれば間違っていないし無駄でもないと想う。
《人生の意味》《生きることの意味》・・・
《その答え》にわれわれは関与できない。
われわれには問いを立てることができない、というのはそういう意味だ。
しかし、われわれは《人生の価値》《生きることの価値》を問うことはできるだろう。
なぜならば、われわれは《その答え》に関与できるからだ。
それはわれわれの世界の内の問題だからだ。
ぼくはそのようにして
そのように《問いの立て方》をかえることによって
永遠の謎から解放されたように想う。
《人生の意味》《生きることの意味》・・・
でも、どうしても知りたいよね。
ラヂヲ君も《同じ想い》です。
☆たてしなラヂヲ☆
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