ピラタスの丘は:雨のち曇り
今日の気温:最低 + 9℃/最高 + 11℃
ピラタスタテシナロープウエイの眺め。(9/27撮影)
すごいでしょう?きれいでしょう?
今年は紅葉が早いので急がないと見逃しますよー!!!
この景色を見たいなら,白駒池や麦草峠の紅葉を見たいなら
10月3日(土)あたりがピークですよ!!
写真クリックで拡大してご覧いただけます。
今日の写真は(株)ピラタス蓼科ロープウエイの許諾を得て転載しています。
★★★
思い起こせばぼくの人生初期の読書体験とでもいうべきものは、小学生の時に毎日曜日の朝、親が起き出すまでの間読み返していた「フランダースの犬」だった。
(もうひとつは「不思議の国のアリス」だけどそれは別項に譲る)
当時としてはめずらしかった共働きの親たちはほとんどぼくにはかまわず自分たちのペースを最優先して生活していたから、日曜日は午後1時過ぎまで朝食(といえるのだろうか?)にはありつけなかった。しかたがないので、空腹を紛らわすためということもあってぼくは親を起こさないように静かに読書に集中していたのだった。
何度読んでも、物語の最後のシーンで涙が止まらなくなった。どうしてなのか、たしかに哀しい結末ではあるけれど、僕はどうしてそこまでシンパシーを感じたのだろう。そうだ、それはしかし同情などではなく共感でもなく、僕自身の哀しみそのものだったのかもしれないといまになって思うのだ。
ぼくにとって世界はこんなに素晴らしいものなのに、周囲のひとびとはぼくの存在にはまったく無関心だった。ぼくが何を想い、何に感動し、なにをしようとしているのかということなんかにはまったく興味がないようだった。
それは小学生だったぼくにはどうにも扱いようのない「場ちがい」という感覚だった。予定外にできてしまった(と僕は両親に言われ続けた)子供に対して、親たちは「この子さえいなかったらどんなに毎日が楽になるだろう」と想いつづけていた。
そんなこと、一緒に暮らしていればすぐにわかることじゃん。どんなに取り繕ってもダメさ。
時として彼らはぼくなど存在しないかのように振る舞った。その一方で、外面は良く、子供のことを最優先している良き親であるかのように周囲対して振る舞っていた。ぼくが裏表のある人間、うそをつく人間を極度に嫌うのはそのあたりにルーツがあるのだと思う。
この世界はぼくなど必要としていないように感じられた。ぼくには「居場所」が与えられていなかった。ぼくはこの世界にとって必要のない「邪魔者」「よけいな存在」のように思われた。小学生でこんなことを感じてはいけない、考えるのも尋常ではない。
さいわいスポーツも得意で、勉強も出来て(?)、しかも「転校生」ということで,学校にはぼくのポジションがあった。
しかし総体的に言うならばそれがぼくの置かれた状況だった。
そのようなぼくの感覚に「不条理」という名前を与えてくれたのは、フランスの劇作家・小説家のアルベール・カミュだった。1942年刊行された「シーシュポスの神話」の中で彼は言う。
人間とその生との、俳優とその舞台とのこの断絶を感じ取る、これがまさに、不条理性の感覚である。
カミュとの出会いがぼくを読書中毒にした。僕はむさぼるようにカミュ全集を読破し、サルトルを読みあさり、ありとあらゆる書物をむさぼり読んだ。それがぼくの大学生活の半分だ。あとの半分はセミ・プロフェッショナルとしてのジャズ演奏と音楽全般への傾倒だった。
いずれにしてもぼくに必要だったのは「人生の意味」以上に「人生の価値」だった。生まれてきたこと、それはぼくの責任ではない。僕はそれに関与できなかった。ではぼくの価値とはなんなのか、ぼくが在ることの意味とは何か、ぼくが生きていることの価値とはなんなのか。
《ひとは生まれてきた以上この世界で創造的な何ごとかを成し遂げなければならない》
そんな強迫観念がぼくを捉えるのにさほど時間はかからなかった。
☆たてしなラヂヲ☆
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