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努力は報われない。ほとんど報われない。「努力する姿」は美しく、誰か力のある人が君のそんな姿を認めてくれるかも知れない。しかしそれは、君の努力が報われたと言うこととは違う。目的を果たしたとき、はじめて「努力が報われた」と感じるのみだ。そのような意味で、努力は対価を求めない苦役あるいは「行」と言えるのかも知れない。
最初から報われることを想定した「努力」などというものはお門違いも甚だしいのだ。
というようなわけで、僕の涙ぐましい「努力」はほとんど報われていない。
僕もようやくそのことに気づいた。あまりにもおそい「気づき」ではあったけれど、全然気づかないよりは断然良い。また、一歩だけ前進できたのかも知れない。
☆☆☆
それはそうと、僕は孤独な人間である。孤立はしていないかも知れないけれど、自ら望んで孤独な人生を送っているのかも知れない。すくなくとも、ひとからはそう見えるかも知れない。
他者に自分のことを理解してもらいたいというのは、原初的な人間の心の志向性だと思うのだけれど、すくなくとも他者が自分を理解しようとしてくれることを望むことは、そんなに大それた欲求だとは思えない。
しかし、いまも、これまでも、僕は他者に理解されないという意味における「孤独」のなかでひとりで生きてきたように思う。
☆☆☆
たとえば、妻は僕に興味がない。正確に言うならば、女性は男性の本質を理解しようなどとは夢にも思わない生き物なのだと思う。理解しようとしないものに理解などできるはずがないのに、男性のことなど手にとるように知り尽くしていると思いこんでいるのは、なんともおめでたい。
女性にとって男などというものは「道具存在」にすぎないのであって、いわば、耐久消費財なのだ。あるいは嗜好品、装飾品の場合もあるのかも知れないけれど。実利的な機能以外に関しては、つまり、たとえば、愛車が故障しないでちゃんと走っている限りは、ほとんど気にもかけていないというのと同様のかかわり方しかしないのだ。あるいはATMから現金が出てくる限りにおいては価値がある、といった存在なのかも知れない。
それですんでしまっているのは、男性の優しさのゆえである。「種の保存」の観点から、DNAレベルでそうせざるを得ないようにできている、かわいそうなジェンダーなのだ。
その反対もまた真実かもしれないから、女性を責めるつもりはない。どっちもどっちなのだ。
「男の子って女の子のことが何もわかっていないのね!」と彼女は僕を責めた。
「女の子だって男の子のことが何もわかっていないじゃないか」と僕は思うが、それは言わないことにする。事態を悪化させるだけだからだ。
要するに、そういうことなのだ。
恋愛は寓話であり、結婚は物語なのである。
☆☆☆
僕だってひとに自分を理解してもらいたくないなんてことは金輪際無いのだ。狂おしいまでに理解して欲しいと思っている。しかし、まあ、理解されなくてもそれはそれでしょうがないなあと諦めているだけなのだ。それがある種の人たちの癇に触るのかも知れない。
理解されない上に、悪意までもたれるなんて、踏んだり蹴ったりじゃないか。やれやれ。
それでも、僕は僕から逃げることはできない。だから、これからも僕は僕自身であり続けるほか無いと覚悟を決めている。この歳になってやっと腹が据わったんだよね。
オレも枯れたね。
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