晴れ(午後4時頃夕立) 気温:最低 13℃/最高 22℃
日に日に朝の気温が下がってきている。
そう感じるのだが、記録式寒暖計はまた見解が異なるようだ。
実際の最低気温は下がっていない。
おおむね12℃〜15℃で、8月初旬以来あまり変わらない。
むしろ最高気温が下がり始めている。
一時25℃を記録した日が数日あったが
いまは18℃〜22℃あたりで推移している。
はっきりしているのは、実際の気温とは別に
大地の温度が、森の温度が、空気の粒子の温度が
はっきりと下がってきていると言うことだ。
朝は明確に「秋」の大気を感じさせる。
渡り蝶のアサギマダラが大挙してやってきた。
遠く奄美大島からの飛来が確認されて数年が経過する。
今日はとても涼しい。
日中も窓を閉めているが、それでも充分以上に涼しい。
午後4時過ぎに夕立が通る。
雷鳴は聞こえない。
さらに気温が下がる。
いよいよ8月も終盤に入ったことの証拠だ。
夏の終わりに避暑地を訪れるともうやみつきになること間違いなし。
この独特の静寂とやすらぎは他ではちょっと味わえない。
アレックス・カーのこと
すでに書いたかも知れないし、書き忘れているかも知れない。
アレックス・カーの『美しき日本の残像』と『「日本ブランド」で行こう』を
お盆直前(だったかな?)に amazon.co.jp のマーケットプレイスで入手できた。
まだ余力のあったお盆休み前半に寸暇を得てはむさぼるように読み進めた。
我が意を得たりだった。
僕らの世代が見ている風景は、じつはすでに「残像」にすぎないのだ。
そのことを認識できた。
なぜならば、われわれの世代にとっては「懐かしい」日本の風景は
われわれのこころの中にだけ生成され構成され映し出されているだけだからだ。
同じ景色をわれわれの子供の世代が観ても、それはただの古びた時代遅れの
日本の残滓にすぎないのだ。
われわれは決して同じ風景を見てはいない。
風景とはひとのこころが「創造」し映し出すものだからだ。
「美しい国、日本」はすでに「残像」になってしまった。
そのことに気づきもせず、
危惧すら抱いていない多くの日本人のひとりだった自分に
驚くと共に腹立たしささえ憶えている。
同時に、われわれが信じ込んでいる「日本人らしさ」も、じつは
もはや「残像」に過ぎないということにそろそろ気づいたほうがいいと思う。
われわれはこの期に及んで自らのアイデンティティを失ってしまった。
晴れ 気温:最低 15℃/最高 25℃
God is a concept by which we measure our pain.
これはこのブログの(あるいは蓼科高原日記の)サブタイトルだ。
じつはメインタイトルなのだけれど、ブログの性格上サブタイトルということになっている。
この言葉が John Lennon の想いの多くを語っているのかどうか寡聞にして知らない。
しかし僕にとっては精神の核とでもいうべきものを言い表している。
神とはそれによってわれわれの苦痛を計る概念だ。
僕の苦痛とはありのままの自分が愛されないということだ。
愛されるために、愛されるような自分を演じ続けてきた。
それは過去完了形であり、現在完了形であり、現在進行形であり、確定的な未来である。
無垢の愛で満たされること、どのような対価も求めない愛によって包まれること。
理解されなくてもいい、ただ、愛されたい。
僕にとって人生とは生きる価値のないものだった。
生きる意味などどこにもなかった。
本当はおまえを生みたくはなかったのだという母親の言葉によってそれは呪いとなった。
その呪いからいまだに解き放たれないでいる。
僕は神を求めている。
宗教上の神ではなく。
至高の愛としての神を。
あるいはそれは「ひと」なのかもしれないけれど。
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