晴れ 気温:最低 11℃/最高 20℃
蓼科でここまでの蝉時雨(せみしぐれ)を聞くことがあるなどとは、これまで想像すらしなかった。
蓼科の夏は真昼でも風が気持ちよいので、この夏は窓全開、ふたつあるサンルーフ全開でランドローバー・ディスカバリー2を走らせている。
爽快な風を受けながら蝉時雨を聞く。
風のにおいがまたいい。
陽射しはまだ真っ白で強烈なのだけれど、少しずつ力を減じてきているのがわかる。
真夏の熱狂、盛夏の祭典、そう、「お盆休み」が終わった。
我が日本国はいつもどおりの日本国に戻る。
なにごともなかったかのように。
お盆休みや土日祭日にはあの迷惑メール=スパムメールも数が減る。
英文や中国語のスパムメールも減るから・・・
ということは、やつらは日本人で、下請け仕事をしているってことか。
はは・・・は。(^_^;)
奇妙な季節感。
お盆明けにますます「夏らしい夏」になってきた。
湿度はどんどん下がって30%台だし、風はさらさらと心地よく冷たくて、
木陰にガダバウトチェアを持ち出してまったりと腰掛けていると、
まるで新緑の初夏の頃のような至福の時間が流れる。
この心地よさは、じっさいにここで体験しないことにはわからない。
日もとっぷりと暮れたというのに、耳の奥ではいまだに蝉時雨。
これも「残像」の一種なのだ、たぶん。
晴れ(午後4時頃夕立) 気温:最低 13℃/最高 22℃
日に日に朝の気温が下がってきている。
そう感じるのだが、記録式寒暖計はまた見解が異なるようだ。
実際の最低気温は下がっていない。
おおむね12℃〜15℃で、8月初旬以来あまり変わらない。
むしろ最高気温が下がり始めている。
一時25℃を記録した日が数日あったが
いまは18℃〜22℃あたりで推移している。
はっきりしているのは、実際の気温とは別に
大地の温度が、森の温度が、空気の粒子の温度が
はっきりと下がってきていると言うことだ。
朝は明確に「秋」の大気を感じさせる。
渡り蝶のアサギマダラが大挙してやってきた。
遠く奄美大島からの飛来が確認されて数年が経過する。
今日はとても涼しい。
日中も窓を閉めているが、それでも充分以上に涼しい。
午後4時過ぎに夕立が通る。
雷鳴は聞こえない。
さらに気温が下がる。
いよいよ8月も終盤に入ったことの証拠だ。
夏の終わりに避暑地を訪れるともうやみつきになること間違いなし。
この独特の静寂とやすらぎは他ではちょっと味わえない。
アレックス・カーのこと
すでに書いたかも知れないし、書き忘れているかも知れない。
アレックス・カーの『美しき日本の残像』と『「日本ブランド」で行こう』を
お盆直前(だったかな?)に amazon.co.jp のマーケットプレイスで入手できた。
まだ余力のあったお盆休み前半に寸暇を得てはむさぼるように読み進めた。
我が意を得たりだった。
僕らの世代が見ている風景は、じつはすでに「残像」にすぎないのだ。
そのことを認識できた。
なぜならば、われわれの世代にとっては「懐かしい」日本の風景は
われわれのこころの中にだけ生成され構成され映し出されているだけだからだ。
同じ景色をわれわれの子供の世代が観ても、それはただの古びた時代遅れの
日本の残滓にすぎないのだ。
われわれは決して同じ風景を見てはいない。
風景とはひとのこころが「創造」し映し出すものだからだ。
「美しい国、日本」はすでに「残像」になってしまった。
そのことに気づきもせず、
危惧すら抱いていない多くの日本人のひとりだった自分に
驚くと共に腹立たしささえ憶えている。
同時に、われわれが信じ込んでいる「日本人らしさ」も、じつは
もはや「残像」に過ぎないということにそろそろ気づいたほうがいいと思う。
われわれはこの期に及んで自らのアイデンティティを失ってしまった。
晴れ一時曇り 気温:最低 15℃/最高 22℃
なにかを得るということは同時になにかを失うということだ。
そのことにこの夏、気づいた。
というよりは、実感したと言ったほうがいいかもしれない。
右に進路を取れば、その分だけ左の進路からはどんどん離れていく。
左の進路の先にはたくさんの旧友のいる村がある。
しかし僕はあえて右に進路を取り、見知らぬ荒野へ足を踏み入れる。
そうしなければならないからだ。
そうすべきだからだ。
僕の感情や想いなど、その決断の前では考慮されない。
仕事とはそのようなものだ。
それが真実であることを20年あまりのビジネスマン時代に学んだ。
人間は自分の思いだけで行動することが許されない場面に
幾度となく遭遇する。
しかし人間とは自身の想いに従って生きるべく定められてもいる。
だからこそ、「苦悩」が存在するのだと思う。
優柔不断は心優しきものが非情な決断を迫られたときに遭遇する苦悩だ。
非情な人間に苦悩など無い。
迷うことなく非情な決断を下し、遂行しながらも
心優しい人間でありたい。
そんな理不尽なことを願っている自分がここにある。
こんな社会は間違っている、絶対に。
晴れ 気温:最低 15℃/最高 22℃
きのうよりも気温が下がった。
いよいよ秋に向かって季節が動き出したようだ。
華麗に舞う美しい蝶を観た。
数年前から奄美大島から渡ってくるようになった
アサギマダラという大型の蝶。
この美しい蝶がその美しさをそのままに
はるか信州の亜高山帯まで飛来することに驚く。
風はますますひんやりと冷たくなり
大地は太陽から受け取る熱よりも放出する熱のほうが多くなってきた。
森の地表温度が下がってきているのを感じる。
雛の巣立ちを追えた野鳥の声はしだいにその存在感を減じ
生育期を終えた樹木もいっときの勢いを失った。
森の小径には蝉の抜けがらや死骸がころがり
知らずに踏みしめるとぱりぱりという乾いた音がする。
僕らの思いには無頓着に自然は振る舞う。
いまやどこにも神はその気配をみせない。
哲学が語る神は理念であり
宗教の語る神は概念であり
さまざまに形を現す神は
メタファーである。
思えばこの森で僕らが体験したり実感する神は
メタファーなのだろう。
ひんやりとした一陣の風が僕らの想いをかすめて去っていく。
僕らはすでにこの夏の終わりを感じ始めている。
避暑地の夏の終わりはいつも
どこかセンチメンタルな風情にあふれている。
まるで終わった夏の恋に胸を痛めるかのように。
晴れ 気温:最低 15℃/最高 25℃
God is a concept by which we measure our pain.
これはこのブログの(あるいは蓼科高原日記の)サブタイトルだ。
じつはメインタイトルなのだけれど、ブログの性格上サブタイトルということになっている。
この言葉が John Lennon の想いの多くを語っているのかどうか寡聞にして知らない。
しかし僕にとっては精神の核とでもいうべきものを言い表している。
神とはそれによってわれわれの苦痛を計る概念だ。
僕の苦痛とはありのままの自分が愛されないということだ。
愛されるために、愛されるような自分を演じ続けてきた。
それは過去完了形であり、現在完了形であり、現在進行形であり、確定的な未来である。
無垢の愛で満たされること、どのような対価も求めない愛によって包まれること。
理解されなくてもいい、ただ、愛されたい。
僕にとって人生とは生きる価値のないものだった。
生きる意味などどこにもなかった。
本当はおまえを生みたくはなかったのだという母親の言葉によってそれは呪いとなった。
その呪いからいまだに解き放たれないでいる。
僕は神を求めている。
宗教上の神ではなく。
至高の愛としての神を。
あるいはそれは「ひと」なのかもしれないけれど。
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