曇り 気温:最低 10℃/最高 14℃
今日はほとんど外に出ないで過ごした。たまにはこんな日もあるし、必要なことだと思っている。天気は朝から曇りがちで見上げれば秋の雲が美しく青空ものぞいている。しかし、陽射しがほとんど差し込まないので「晴れ」とは言いかねる。
一時雨がぱらついたがそれも止んで、結局は今日の天気は「曇り」と言うのが妥当なのだろう。ペンション・サンセットの庭の樹木も少しずつ紅葉を始めた。白樺も黄葉して落葉が始まった。ようやく9月らしい季節感になってきたようだ。
ここ数日は奇妙に温かかったが、今日はだいぶ本来の冷え込みを感じる一日になった。いまでもまだ多くの野鳥がピラタスの丘に生息していて、灌木の茂みに身を隠しながら動き回っている。その上空を鷹や鷲が低く旋回していく。
よく見れば、見渡す景色全体の色味が黄色にシフトしてきたのが感じられる。指標としてはなにもないのだけれど、これは実感だ。吹き抜ける風はもう完全に秋風になっている。陽射しは弱まり、夏のあの威勢の良さは微塵もない。思わず「ひなたぼっこ」をしたくなるくらいのものだ。
パルは気持ちよさそうに熟睡している。シベリアンハスキーだからこの冷え込み、この冷風がとても心地よいのだろう。夏に比べて日中もとてもよく寝るようになった。羽虫や蜂が飛び回らなくなって気に障ることが無くなったのも一因かも知れない。
散歩の時も往年の若犬の頃のように元気いっぱいだ。身のこなしも軽やかに、リズミカルにずんずん急坂を登っていく。彼の走りは馬のギャロップと同じスタイルなので、見ていてもとても優美に感じる。全身が新しい毛でむくむくとしてきたのでその姿もとても愛らしく美しい。
ピラタスの丘ペンション村ではコスモスが満開になり、マツムシソウが咲き乱れる季節になった。ここには「残暑」なるものは古来より存在しない。夏が終わりいきなり秋が来る。そのようにしていま秋を実感している。
さて、昨日導入した有線ブロードバンドルーターは大正解で、ルーターのファイアーウォール機能を「高度」に設定して外部からのすべてのパケットを遮断し、DHCPからのIPアドレス取得に必要なパケットのみを通すように設定した。
おかげでそれ以前にちょくちょくつついてきたアクセス試行はPCまで到達しなくなった。あんまりしつこいとpingフラッドやポートスキャンで反撃したくなっちゃうから、これでよかったのだと思う。戦争やっても双方良いこと無しだからね。
セキュリティー保護のため、あえてこの部分はあまり正確に書いていない。わざと間違ったことを書いたりもしている。やれやれ、嫌な世の中になったものだ。まあ、とにかく、ルーターとファイアーウォールソフトの使用はいまや必須のものとなったわけだ。それをやっていないとなにがあっても不思議じゃない。
それにしても今はやりの「匿名性」を担保できない同じネットワーク内の会員のPCに自分のグローバルIP丸出しで不正侵入を試みるかね。大胆というかお馬鹿というか・・・。そいつの家の前にクルマを乗り付けてぶん殴ってやろうかね。いや、それじゃあ傷害事件になっちゃうからやめておこう、馬鹿みたいだし。
晴れのち曇り 気温:最低 10℃/最高 17℃
台風が近づいているというが、ここは風ひとつ無い。朝から(天気予報に反して)快晴の秋空がとても美しかった。雲もすっかり秋雲に変わった。空の写真を撮ってあとでモニターで見るとなんとど真ん中に「赤とんぼ」が写っているではないか。ファインダーではまったく確認できなかった。
午後遅くから曇り空、というかしだいに雲の中に入ってきたようだ。午後5時頃にはすっかり霧の中のような景色になった。雨は降りそうでまだ降らない。雲はコンスタントにゆっくりと流れて、じつに幽玄な情景になっている。残念ながら今日は夕陽は見ることができそうにない。
台風13号は日本海に抜けて明日の夜には東北沖の日本海あたりに到達するようだ。ここは雨もほとんど降らずあまり影響は受けそうもない。標高が高いので、上空の雨雲は平地と異なって一層のみなので、平地ほど雨は降らない。森林帯なので防風林のように機能して風の影響もほとんど無いのが通例だ。もちろん土砂災害とも無縁の土地柄だ。
天気概況によれば明日はそよ風も吹かないだろう。雨もまず降らない。台風13号の雨雲は北側に集中しているからだ。今日お泊まりのお客様にとってはじつに幸いなコースをとってくれたようだ。そもそもこの台風のおかげでせっかくの9月の3連休の人出は最悪になった。観光地にとっては泣きっ面に蜂の天気が続いた。
これで秋の長雨も一段落して、穏やかな9月らしい気候になってほしいものだ。
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曇りのち雨 気温:最低 8℃/最高 13℃
僕らは過大な期待をしすぎていたのかも知れない。インターネットというインフラに、WWW(ワールドワイドウェブ)というひとつの世界観に。一個人が国境を越えて不特定多数の人々にメッセージを発信できると、いささかなりとも、思いこんでいたところがある。
しかしそれはどうも違っていたようだ。インターネットの世界でも、インターネットが出現する以前の現実世界と同じことが起こっているだけだ。個人のメッセージは個人のメッセージ以上の力を持ち得ないし、広告は広告らしくなければその効果が期待できない。新しいコミュニケーション形態は未だ出現していない。
それはケータイ以前とケータイ普及後の社会が何ら本質的変化を遂げていないということとも相通じる事実だ。それを使うのが人間である以上、そしてその人間が何ら進化していない以上、あたりまえのことかも知れない。インターネットとケータイというこのふたつのコミュニケーションのために用いられるインフラのもたらしたものといえば、社会における個人の匿名性の氾濫だけなのかもしれない。
また「匿名性」だ、やれやれ。
僕らは「匿名性」を身にまとうことによって、まるでなんでも透明にしてしまう魔法のマントをまとったような気になってしまう。自分は安全圏に身を置きながら何だってすることができる。この匿名性による自己の行為の秘匿こそ、現代社会の病理といえるだろう。
というようなことをまた書いてしまう。これでまたお客様が減ってしまうのだろう。がんばって書けば書くほど潜在顧客の数が減ってゆくような気がする。もっと楽しくて、おいしそうな話ばかり書く方が何倍良いのか知れないけれど、僕にはそれができない。
「匿名のペンションオーナー」としてお料理の四方山話(よもやまばなし)とか、パンを焼く話とかだけしていた方がずっとずっと良いのかも知れないのにね。
匿名を使わずに日記を書くという行為は結局はこのようなスタイルこのようなコンテンツへと帰結するほか無いのかも知れない。僕という実在の個人の核心から読者を遠ざけるために螺旋(らせん)を描くようにして個人的想いから話をそらせてゆくのだ。
螺旋構造(らせんこうぞう)は DNA だけではない。それは思考においても存在する構造なのだ。弁証法なども僕の感覚では「螺旋構造」そのもののプロセスのように感じる。しかも(少なくとも)僕の思考における螺旋構造はエッシャーの「だまし絵」のように、あるいは音楽における音階のように、のぼることもなくくだることもなく、進むこともなく戻ることもない。気がつけばいつの間にか「ふりだし」へと戻っている。
11年前に書き始められたこの日記は、おそらく、12年かけて巨大な「円環」を描くような気がしている。つまり、12年の歳月をかけて「ふりだし」に戻るのだ。それを「徒労」と呼ぶべきか、「いささかの進歩・進捗」と呼ぶべきか僕は知らない。
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