(補足)
たしかに人間はひとりで生きてゆくことはできない。それは事実だ。しかし、同時に、しょせん人間はひとりなのだ。
と私は書いたけれど、
実際に私はそのように考えている。
しかし
この一覧の記事は
そのことを伝えたくて
書かれたものではない
むしろ、
だからこそ
ひとのぬくもりが必要なのだ
生き抜くためには「愛」が必要なのだ
ぼくらには・・・
そのことを言いたかったのかもしれない。
しかしその一方で
どうにも理解され得ない世界観というものを持つ人間が
同じこの世界には存在するのだと言うことを伝えたかった。
それが本質的に「犯罪的観念」あるいは「狂気」でない限りにおいては
そのような世界を生きざるを得ない人間にも
他と同様の敬意が払われるべきだ。
世の常識などというものは
「歌は世につれ、世は歌につれ」
みたいなものなのだ。
「歌」を「ひと」に読み替えてみてほしい。
ことかように
一夜にして世界はころっと違う方向に走り出す。
極端なことを言えば
100万人には100万通りの常識が存在するのだ
たぶん。
その最大公約数が実際的な「常識」として規範化される
それは必要なことだ
まちがっていない
しかし
その規範から少しでも外れたものを
闇雲に排除するのは間違ったことだと思う
とか・・・
そんなことを言いたかったような気もする
☆たてしなラヂヲ☆
(承前)
以下は観ての通りだいぶ昔の「蓼科高原日記」の記事である。
とても長い文章なので、携帯からアクセスしている方は覚悟していただくか読むことを断念した方がいいかもしれない。
☆☆☆
2003.01.17(金)----晴れのち曇り 気温 = 最低 -13度/ 最高 1度
『 ひとは理解されたいと切望するものだけれど、誤った理解をされるよりはむしろ全く誤解されるか全く理解されないほうがましだと私は考えるものである。』
と私は書いたけれど、実際に私はそのように考えている。そりゃあわかってもらえれば本当に嬉しいけれど、わかってもらえないならばそれはそれでしょうがないや、と思っている。だから私はよくひとに誤解され、時に嫌われるのだと思う。しかし、それが私なのだ。
正確に言えば私が求めるものは「理解」ではなく、「魂の共感」とでもいうべきものなのかもしれない。それは努力してどうにかなるものではないし、説得できるものでも無い。それでも起こる時はじつにあっけなく簡単に「魂の共鳴現象」は生じるものなのだ。
たしかに人間はひとりで生きてゆくことはできない。それは事実だ。しかし、同時に、しょせん人間はひとりなのだ。誕生が主体的なものであるならば、生まれる時もひとりそして死ぬ時もひとり。最後にはやはり自分自身で自分の人生と折り合いを付け決着を見なければならないのだと思っている。
1月の厳冬期の夜、空には満月を過ぎたばかりの大きな光の球が煌々と輝いている。分厚く積雪した森からはなんの音も聞こえてこない。静寂があたりを支配している。まるで私の知らないうちに世界が終わってしまったかのように。
(おわり)
☆たてしなラヂヲ☆
(承前)
以下は観ての通りだいぶ昔の「蓼科高原日記」の記事である。
とても長い文章なので、携帯からアクセスしている方は覚悟していただくか読むことを断念した方がいいかもしれない。
☆☆☆
2003.01.16(木)----晴れ 気温 = 最低 -15度/ 最高 -4度
『17歳の私は50歳の私を想像することすらできなかった。それはまるで20世紀にあって30世紀の世界を想像するよりも困難なことだった。50歳の自分を想像することは永遠を思うのと等しい行為だった。しかし、ひとは確実に歳をとり確実に50歳になるのだ、この私が証明しているように。』
それは百億光年離れた恒星のほのかな光を求めて夜空を見上げるような気分だった。しかしいままさに私はその場所に立っているのだ。なんということだろう。しかし明確に実感できるのは「こころに年齢は無い」ということだ。私のこころは時に15歳の少年であり、時に24歳の青年であり、そして時に50歳の初老の男性である。
もっと大切なことを書いておかなければならない。それは「私はうそつきだ」ということである。これは「日記」ではあるけれど、決してプライベートな日記ではない。私小説的な文章ですらないのだ。これは「公開を前提に描かれた自画像」とでもいうべきフィクションである。ほら、よくある「これは事実をもとに構成されたフィクションです。」というやつなのだ。
ひとは理解されたいと切望するものだけれど、誤った理解をされるよりはむしろ全く誤解されるか全く理解されないほうがましだと私は考えるものである。
さて、こころは歳を取らないという話だ。私はこの世に生をうけてからこれまでのすべての瞬間のこころを50歳のこころに内包して生きている。目を閉じれば自分の中にある広大な薄明の世界を感じることができる。それは私にとっての「この世界」である。そこでは愛する者たちが息づく私のコアとでも呼ぶべき部分が本来の姿で存在している「私の世界」である。
私の肉体が生命を失って滅び消え去っても私のこの世界は存在し続ける、たぶん。「私の『この世界』」はわれわれが「現実」と呼ぶ世界に属さないからだ。それをひとは「永遠」と呼ぶべきなのだろうか。
私という存在が消え去ってもすべてが失われるわけではない。私は無に帰すが、「無」は「非存在」ではない。「無」は存在する。あるいは「存在される」。「無」は「存在」の対立概念ではない。私は無の彼方へ没するのではなく「空(くう)」のなかに含まれる。空(くう)とは存在の充満する無である。ドゥルーズ=ガタリならこれを「カオス(混沌)」と呼ぶかもしれない。しかしそれは秩序ある創造的・知性的カオスなのだ。いずれにしても「私のこの世界」はそのような空(くう)に永遠に同化する。
まあ、空(くう)というのは実際にそれらしきものを体験してみないことには理解不能だとは思うけれど、体験的には(般若心経にもあるとおり)「なんにもないけれどすべてがある、存在で充満した空っぽの世界」だ。これは論理的には全く理解不能なひとつの事実だ。やはり自分で実際に体験するほかないのだろう。
(つづく)
☆たてしなラヂヲ☆
(承前)
以下は観ての通りだいぶ昔の「蓼科高原日記」の記事である。
とても長い文章なので、携帯からアクセスしている方は覚悟していただくか読むことを断念した方がいいかもしれない。
☆☆☆
2003.01.15(水)----雪のち晴れ 気温 = 最低 -15度/ 最高 -7度
『私がいまここにあることに私は満足しているし、掛け値なしに一切後悔していない。しかしそのことと過去を語ることとはまた別の話だ。』
と、私は昨日書いた。年を経るごとに過去を思い起こしたり語ることが多くなったのは、私が明らかに「人生のピーク」とでも呼ぶべき地点をすでに通過してしまった事実を物語っている。それは自然なことだし、逃れようの無いことであると思う。
私は人生の頂点を過ぎて久しく、すでに「老い」の段階に入っている。それは気持ちの問題ではなく、しごく単純明快な「事実」である。そうであるならば、そのように生きるしかないではないか。いまの自分に出来ることを行い、できないことはできないと認める他ない。でないと何も始まらないし、一歩たりとも前に進むことができない。
いまそこに在る事実を認めることから始めなければならない。たとえそれが自分にとって堪え難いものであったとしても。あるいは「かつての自分」からすれば信じられないほど無力な自分をそこに見いださざるを得ないとしても。
旅人が来し方の事物を語るのと同じように、人生のピークを過ぎて「夕暮れ」に向かう人間はあたりまえのように「過去」を語ることになる。それは(くりかえしになるが)自然なことなのだ。これから起こるであろうことよりも、過去に遭遇し通過してきた経験のほうが圧倒的に多いのだから。そしてはるか未来を語るにはすでに人生は短い。だからお若い方々はどうかそのことに寛容であって欲しいと願う。
というようなことをいうと、「まるで70代の男性の語ること」のようだと思うかも知れない。自分でもそう感じないでもない。50歳なんてまだまだ若い、ヒヨッコだという世界もあるだろうから。しかし、年齢というものは極めて「個人的」なものなのだ。実年齢はその人間の通過してきた(単なる)時間で測られるべきではなく、その密度と消費したエネルギーの乗数で語られるべきだ。
だから私は単に齢を重ねただけの老人をイノセントに尊敬したり信じたりできない。ある意味において年齢は関係ないのだ。そうした意味において、ただ歳をとっているというだけで「敬愛し尊敬しなければならない」という社会的通念には無理がある。どのような年齢の人間にも「素晴らしい人間」から「どうしようもないろくでなし」までじつに多様な人間が存在するのだから。
ただひとついえるのは、彼らがその年齢まで生き抜いてきたという一点だけには無条件に相当の敬意を払うべきである。人生、単純に日々生き続けるということだけでもじつに大変なことなのだから。人間性はまた別次元の話だけれど。
私の人生は残り数秒からじつに数十年という可能性の中にある。何れにせよはっきりしているのは、私が確実に「中年」と呼ばれる世代から「老人」と呼ばれる世代へと向かって進み続けていて、その事実はいかんともしがたいということだ。それは受け入れなくてはならない、事実として。
17歳の私は50歳の私を想像することすらできなかった。それはまるで20世紀にあって30世紀の世界を想像するよりも困難なことだった。50歳の自分を想像することは永遠を思うのと等しい行為だった。しかし、ひとは確実に歳をとり確実に50歳になるのだ、この私が証明しているように。
(つづく)
☆たてしなラヂヲ☆
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