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よく訪問するウェブページでこんな一文に出合った。これは個人でホームページやブログを運営しているひとは一読する価値があると思う。
個人がwebサイトを運営、公開していく動機というのはここでも彼が言っている通り「名誉の部分に起因する精神的対価」という部分しかないと思う。
ここで言う「彼」とは『けなす技術〜俺様流ブログ活用法』の著者である山本一郎氏のことだ。あの2ちゃんねるの有名人の『切り込み隊長』でもあるとのこと。ぼくは2チャンネルにはあまり近寄らないひとなのだけれど、そのイメージとはある意味かけ離れた真摯な議論がこの著書ではなされている。
先の引用箇所についてはぼくもまったく同感だ。それは10年以上ウェブサイトを個人で運営してきてた者としての切実な実感でもある。どんなにアクセスの多い優れたコンテンツのサイトを構築運営したとしても、たとえばぼくの場合で言うなら、他のペンションより集客数が多いというわけではない。業者任せでプロフェッショナルな「ホームページ」を運営している同業者の方がむしろ繁盛しているくらいだ。
それでもぼくがプロ任せにしないで、素人仕事でこのサイトやブログを運営しているのは、ペンションをパーソナルなビジネスと考えているからだ。ホテルや旅館などのようなある意味パブリックなというか法人格での商売とは考えていないからだ。ペンションはパーソナルな宿なのだ。お客様に対するフェイス・トゥ・フェイスのホスピタリティー提供を最大の特徴とする宿泊施設なのだと考えている。
Now He Sings.
この10年余でぼくが得たものは素晴らしいお客様。これ以上の名誉、これ以上の精神的対価はないだろう。しかし、膨大な時間と労力を費やして運営してきたこのサイトから得たものといえば、たしかに、「ささやかできわめて個人的な名誉」のみだ。それでも良いじゃないか、と思う。しかし、ちょっと悔しい想いもあるのだ。
Now He Sobs.
しかし、時代はそんな想いとは裏腹な方向へと梶を切っている。経営者の想いや志なんてものは一切評価されない、結果だけがすべての時代へと変わってしまったようなのだ。ビジネスである以上、良い結果を出さなければならないのは当然なのだけれど、どれだけもうけたかという意味での結果ばかりが価値基準となってしまった。それが新自由主義経済の本質なのだからしょうがない。格差社会は新自由主義と呼ばれる企みのもたらす当然の帰結なのだ。
同時に、それは我が国においては江戸中期に確立した貨幣経済の当然の帰結でもあるのだけれど。「金(かね)は金(かね)のことわりに習いて流れる」のだ。それは水が高いところから低いところへと流れるのと同様の自然法則なのだ。金(かね)は金(かね)を愛する人の周りに寄ってくるものなのだ。拝金主義者がますます膨大な富を手に入れるのはそのような法則による。と、上田秋成の雨月物語の最終話「貧福論(ひんふくろん)」に登場する黄金(こがね)の精である翁は語る。
ああ、「こころの時代」は終わってしまったのか。高邁な精神性を目指すのはバカモノの生き方なのか。教養など腹の足しにもならないと、人間としての基本的素養をなおざりにした実学主義に走るのか。昨今奇妙な人間が増えているのはそのひずみによるものではないのか。
ぼくも、みんなも、くだんの翁の言葉にいまこそ耳を傾けるときなのかも知れない。
私は今、仮に姿形を現して語ってはいるけれども、神でもなく仏でもない、もともと情(こころ)のない物であるから人間とは違った考えをする。古代では富める人というものは、天の時流にかない、地の利をよく察して、産業を営んで富貴となった。これは天の自然にのっとった方策なので、財物がここに集まるのも天然自然の理(ことわり)である。また卑吝貪酷(ひりんどんこう)の人は、金銀を見れば父母のように親しくし、食うべきところを食わず、着るべきものを着ず、ほかに得がたい自分の命さえ惜しいと思わずに、起きて金銀を思い寝ても忘れないほどだから、ここに集まるのも目前に見えるように当然の理屈だ。私は元来、神でもなければ仏でもない、ただの非情の物である。そういう非情の物として人間の善悪を明らかにしたり、その善悪に従わなければならぬ道理はない。
いったい、善を勧(すす)め、悪を罰するのは天であり、神であり、仏である。この三つは道徳である。われら非情の物たちが関係するわけにはいかないものだ。われらはただ人びとが仕えたりかしずいたりする、その丁重さにひかれ集まると理解すべきである。ここが金に霊があっても人間の情(こころ)とは異なる点なのだ。また富んでいて今生に善行をなすにしても、わけもなく恵をほどこし、相手の人の不道徳をも見きわめず金を貸し与えるような人は、それがたとえ善根(ぜんこん)を行うものであっても財貨はついには消失してしまうに違いない。こういうのは金の使い方をおぼえても、金自体の本質を知らないで、軽々しく扱ったためである。
ぼくも耳が痛い思いがする。お金の大切さをその本質において学んでこなかった。こんなことではお金に見捨てられてもしょうがないのかも知れない。なお、この現代語訳は講談社学術文庫「雨月物語(青木正次・全訳注)上下巻」による。
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