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神はなにも語らずなにも指し示さない。それは神の仕事ではないからだ。したがって、宗教の起源はマハリシ(偉大なる観者)の直感であり、宗教の体系はその後を引き継いだ偉大なる聖者のインタープリテーションである。宗教をひとを操る道具にする輩は古来より存在し、それは権力者でありテロリストでありペテン師であった。いつの世でも変わらないのはイノセントな民衆の深い信仰心だけだ。
釈迦が得たのもそれであり、モハメッドが達したのもその境地であり、キリストが語ったのも(いささかメタファーが多いが)その世界である。アニミズムや山岳信仰などの原始信仰と宗教との決定的な違いはそこにある。神のお告げを受けたなどと言うイノセントな体験ではなく、始祖あるいは教祖と呼ばれるかれらは確かにそこに行ったのだ、その境地に達したのだ。
しかし彼らといえども「神」に会うことはかなわなかった。神の思惟する世界に触れたに過ぎない。しかしそれは偉大な業績に違いなかった。そして現代において我々はその恩恵に恵まれ、あるいはその災いに見舞われているわけだ。どちらにしてもそれはわれわれの責任であって、神には関わりないことではある。
同じ境地に達しながら異なった教義を唱えると言うことには蓋然性がない。それは後世に変質(ローカライズ)していったものと考えるのが妥当だと思われる。神が唯一無二であるならば、「聖戦」とよばれるような宗教戦争などありえない。宗派が異なるというだけで殺し合うなどという所行は、すでに神の世界からほど遠い愚かな人間の営みに過ぎない。そのことに神は一切関わりない。
だからぼくは宗教は信じない。しかしぼくは「神」を信じている。唯一無二の神を、この世界の成り立ちを。この世界があるということそのものが奇跡であり、神の存在証明である。だから、物語として奇跡を語る宗教をぼくは信じることが出来ない。そのような奇跡は神のなせる業などではなく、純真なひとびとの信仰とその想いが実体化した出来事なのだ。神は我々の世事には一切かかわらない。それは神の仕事ではない。
ひとそれぞれの神を、宗教を信仰するのはじつに自然なことだから、ぼくはひとのことには一切かかわらない、当然のことだけれど。これはぼくにとっての神のはなしに過ぎないのね。
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